一瞬の出会いと別れ、珍しい方々に会う

shirasagikara2012-05-07

1944年秋、ある方の紹介で、日本陸軍へ入隊時に、たすきがけにする日の丸へ高村光太郎が署名してくださるという。光太郎の妹様と落ち合って先生の自宅を訪ねた。出てこられた先生は「どこの部隊へ入るの」「はい、船舶隊です」「そう、命はないね」と言って、日の丸の隅に「わたつみ(海)に敵を撃つ 光太郎」と墨書された。
1948年春、わたしが勤めた国立国会図書館赤坂離宮に創設され、これまで民衆が入れなかった宮殿に祖母を案内した。ふたりで二階のベランダから眺めていると、横にかっぷくのいい紳士が立たれた。祖母が「いいお庭ですね」ともらすと、「わたしのじじいの庭でした」の答え。紀州徳川家のお殿様だった。
名古屋のホテルで、閉まりかけたエレべーターに駆け込むと、ドアを押さえて待ってくれたのが、あの大横綱大鵬関だ。引退後の背広姿でイケメン。エレベ−ターといえば、国会議事堂衆議院玄関口右手のエレベーターで、共産党大親分の徳田球一とふたりで乗り合わせた。そんなに大男でなかった。同じエレベーターに乗ろうとして衛視に止められ、振り向くと吉田茂総理が悠々と乗り込まれ、お供らは階段をすっ飛んで駆け上がった。
1960年ころ、国会議員の調査依頼で、上司とふたり成城の民俗学研究所に柳田國男を訪ねた。気さくに会ってくださり、質問にも丁寧に答えられた。手振りを交えてアボリジニの風習を語られたのが印象に残る。
極めつけは徳川十五代将軍の孫の池田徳真さんだ。1992年春、知人の紹介で、88歳になられるご自身の伝記自筆原稿を本にしたいとご持参。関東大震災で母上を失い、以後キリスト信仰に燃え、東大からオックスフォード大へ進み、旧約神学を修め、帰国後は日米戦争下に対米放送の責任者となった生涯の記録だ。教会の成人式では「キリスト信仰は湧き上がる喜びです。最後までキリスト様を信じましよう」と結ばれるのが常だったという。「恩寵と復活」という本になり、池田さんに乞われてわたしは「序文」を書いた(キリスト新聞社、B6判、166p、1993年刊)。わが家で池田さんと、二つ歳上のわたしの父が、腕を組み賛美歌を歌っていた姿がなつかしい。
「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」(マルコ12・11) <写真は庭のアイリス>