家庭に祭壇を築く

shirasagikara2012-05-28

5月24日(木)、招かれて「鎌倉・笛田 家庭集会20周年記念」のお集まりに参加した。10周年で、お招きをうけたさいは、広い会場を借り、健在だったご主人が司会をされた。7年前、ご主人が主に召されたあと、その志を継いで、夫人が中心になり何人ものお仲間と月1回の集会をつづけられた。毎月、A4判の「集会便り」1枚を発行し前月の聖書の勉強報告を発送される。当日、自宅で開かれた集会には30名近い参加者があった。
家庭集会をつづけることは家庭に祭壇を築くことだ。祭壇は主を礼拝する場所だ。わたしは、こういう姿でキリストさまを信じ、あがめていますと、目に見える形で自分の立場を鮮明にする。人に見せるためではないが、家庭からもれてくる賛美歌やピアノの響きを聞いて「お宅はクリスチャン」と隣り近所が知るようになる。
義人ノアが洪水のあと、箱舟から出てすぐ「主のために祭壇を築いた」(創世記9章)。よほどうれしかったに違いない。「救われた!」という実感があった。アブラハムが「出て来い!」という神さまの言葉を聞いて、カルデアのウルからカナンに入ったとき「あなたの子孫にこの地を与える」の声を聞いた。するとアブラハムは「主のために祭壇を築いた」(創世記12章)。「なんという恩寵!」と喜んだのだ。その孫のヤコブが舅のラバンのもとを逃れ、怖かった兄エサウとも別れ、シケムに着いたとき「祭壇を建てて、エル・エロヘ・イスラエル(神はイスラエルの神)」と呼んだ(創世記33章)。大安心したのだ。
家庭に祭壇を築き、集会をつづけるのは、この喜び、大安心が底にあってのこと。それに努力がいる。アブラハムヤコブも、石を集め段を築くのにすごい労力が要ったはず。家庭集会20周年というのは20段、石を積み上げたことになる。集会のため家具、障子、襖を外して部屋を広く整えることもある。道から玄関から部屋中掃除し、初めての方のため、聖書・賛美歌も備え、花を飾り、茶菓を用意し、ふだんは要らない湯のみ茶碗や茶菓用の皿スリッパも数多く準備。案内通知を出し、電話をかけ、そのうえ聖書の勉強も怠らない。ノアや、アブラハムや、ヤコブのように、よほど喜んでいないとつづかない。「喜びと努力」これが家庭集会継続の秘訣だ。この家が祝されないはずがない。
「集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう」(ヘブル10・25)<写真は庭のバンマツリ。始め紫、後に白>