祈られている

shirasagikara2012-06-04

わたしの友人が出張で米国へ行ったとき、日曜の朝、泊まった大きな街で礼拝したいと思って教会を探した。彼は米国の大学も卒業し英語は堪能だ。ところが1ブロック、2ブロックと探しまわっても教会が見つからない。どの教会でも礼拝開始の時間はほぼ同じなので、彼は時間に遅れるとあせってきた。ところが、あるブロックの角を曲がったむこうに教会堂が見えた。そのとき彼は「祈られているな」と思ったという。「ああ、よかった」ではない。「間に合った」でもない。とっさに「祈られているな」と思った彼の信仰は本物だ。つまり、彼自身が祈る人だからだ。人のためつね日ごろ祈っている彼だからこそ、この言葉が口を突いて出たのだ。
使徒言行録」12章で、ペトロが投獄されたさい「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」とある。その祈りが聴かれてペトロを天使が救い出した。ペテロを縛った二本の鎖がとけ、第一、第二の衛兵所も過ぎ、鉄の扉も開いて外へ出たとき、彼はわれに返って「今、初めて本当のことがわかった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、わたしを救いだしてくださったのだ」と主に感謝した。
どの大きな組織でも、大事な鍵を保管しているのは、あんがい低い身分の者だ。大会社であろうと、軍隊であろうと、社長や師団長は、鍵の保管場所すら知らない。その低い身分の中にキリスト信者が増えていた。「弟子の数はエルサレムで非常に増え」とあるとおりだ(6章7節)。とすればペトロ救出作戦は可能と思われる。そのことを、人間わざと思うか、天使の働きと思うかで、その人の信仰が量られる。人間の働きの上に働きたもう主の手を拝するのが信仰だ。ペトロのように。
ところが、熱心に祈った教会では「祈りが聴かれペトロが解放された」のに信じない。「ペトロだ」と知らせても「気が変になった」と取り合わない。熱心に祈る人の不信仰だ。
「祈られている」。これがわたしたちを支える。わたしの別の友人が留学したさい、時差を考え母上と同じ時間に祈り合った。心細い外国でも、自分のため祈ってくれる人がいると思うだけで元気が出る。勇気が湧く。主を仰ぐのだ。
「兄弟たち、わたしたちのために祈ってください」(第2テサロニケ3・1) <写真は庭の紫蘭