「覆(おお)う」と「暴(あば)く」

shirasagikara2012-06-11

建築基準法がかわって、むかしは建てられなかった木造3階建ての建売りが、わが家の南の道むこうに3軒できた。いずれも「庇(ひさし)」が短い。ご近所でも、古くからある家は庇が長い。中には青銅の庇を長く屋根の下から張り出している。庇が短いと太陽がもろに部屋に差し込み雨風も吹き込む。巨大な屋根の神社仏閣の庇は長い。その中央から、さらに張り出した庇に柱を立て、参拝所にしているのもある。これも雨宿りになり、日よけになる。
パウロが書いた、コリント第1の手紙13章は、詩のように美しい「愛の賛歌」だが、その7節に「愛は、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(新共同訳、口語訳、文語訳)とある。この「すべてを忍び」(パンタ ステガイ)は、じつは「屋根や庇(ステゲエ)」が原意だ。長井直治訳は「すべてのこと庇(かば)い」と原文に忠実だ。だから「愛は、すべてをおおい」が正しい。
義人ノアが、1年と10日ぶりに箱舟から出て、箱舟以外の人間が死に絶え、だれひとり自分を見ている他人がなくなったとき、ブドウ酒で酔っ払い、すっ裸でねころんだ。見つけた次男のハムは、あんな偉そうなおやじが、ヘベレケに酔って、すっ裸でひっくりかえって寝ていると、兄や弟に「知らせ」「あばいた」(旧約聖書「創世記」9章)。
しかし、長男のセムと、三男のヤペテは、父の失敗を「知って」、それを「あばく」のでなく「おおった」。彼らは、その恥ずかしい姿をさらす、父の失敗を見ないように、後ろ向きで父に近づき、ふたりの両肩にかけたガウンを、さっと父のからだに落としその裸を「おおった」。これが「愛」だ。父を「庇(かば)った」のだ。愛は、人の失敗を「見て」「知って」も、「あばき立てない」で「包む」。
「猿の傷見舞い」というたとえがある。猿が「けがをしたんだって、どれどれ、どこが」と、傷口を両手で開いて、血がたらたら流れると「ここか」と確かめる。見舞われることで、よけい傷口がうずくというたとえだ。「あばくこと」は、受けた傷を深くする。「おおうこと」は、包み、いやす。
エスは人の罪を「知って」「あばき」裁かず、十字架で「包んだ」。これが愛の最たるもの。
「愛は多くの罪を覆う」(第1ペトロ4・8) <写真は庭のアブチロン