小沢一郎のマニフェスト、キリストのマニフェスト

shirasagikara2012-07-02

6日前の2012年6月26日、民主党小沢一郎とそのグループが、衆議院で消費税導入法案採決に反対しました。前の選挙でマニフェスト(選挙公約)に掲げた原則とはちがうという主張です。しかしそのマニフェストは、万年野党時代に「政権を奪取すれば実行する」という宣言です。政権運営の実績のない者たちの絵に描いた餅でもあったのです。増税しないでも無駄を省けば財源はあると見ていたようです。
しかし、政権を握り「事業仕分け」で無駄を減らそうとしましたが、官僚の抵抗もあり効果なし。しかも社会保障費の増加、国家債務の累増という重圧が迫ります。その揚句の増税です。やらないと日本が持たないのです。政権運営の経験のある自民党公明党が賛成にまわったのもうなずけます。やってみればマニフェストと現実はちがうのです。
イエス・キリストの福音もそうです。「マタイ福音書」5章から7章の「山上の説教」は、イエスの宣教の開始に謳いあげたマニフェストです。「ああ幸いだ、悲しむ人たち、その人たちは慰められる」「君たちの正しさが、偉い学者や信仰熱心な連中以上でなければ、天の国に入れない」「みだらな思いで他人の妻を見るだけで、もう姦淫の罪を犯している。そんな目はえぐり出して捨てろ」「君の右の頬を撃つ者に左の頬も向けるんだ」「明日のことを思い悩むな、一日の苦労はその一日で十分だ」。読むだけですがすがしく、しかも心を刺し貫くすごい「マニフェスト」(宣言)です。
しかし、これでわたしは悩みました。実行できないからです。「右の頬を撃たれたら、左の頬は向けられない」と苦しんだのです。そのとき浅田正吉という伝道者が「そんなことが、すらすら出来るようなら、キリストは十字架で死ぬ必要がなかったのです」と言われました。キリストがマニフェストを修正されたのです。
山上の説教で謳われた名言の数々も、実験の結果、罪深い人間には「すらすら出来ない」のです。だから罪ある者が、罪あるままに、罪なしとされるため、イエスがその罪を負って十字架で死なれたのです。マニフェスト金科玉条ではありません。キリストでさえマニフェストを修正されています。それに固執する小沢一郎は、日本国を見ないで、自分が振るえる権力だけを見ている人ではないでしょうか。
「施しをするとき、右の手のすることを左の手に知らせるな」(マタイ6・3) <写真は庭の突き抜け忍冬>