逝くものは斯くの如きか

shirasagikara2012-07-09

さきごろ、論語の「逝(ゆ)くものは斯(かく)の如(ごと)きか、昼夜を舎(お)かず」ということばを教えられた。孔子さまが、どこかの大きな河のほとりで残された感慨だという。
「その通り」と、わたしも思った。この2012年5月末からの40日あまりに、5人の知人を天に送り、うち3人の葬儀を司どった。こんな経験は初めてだ。昼夜をおかず訃報が届き、葬儀の打ち合わせ、納棺、前夜式、葬儀、火葬とつづく。もちろん式辞に心を砕く。1昨日の7月7日は、5月末に葬儀にあずかった女性の納骨式、きのう8日は86歳の男性の前夜式、きょう9日は葬儀だ。「逝くものは斯の如きか、昼夜を舎かず」。
しかし葬儀はふだん触れることの少ない「死」にじかに触れる大事な時だ。子や孫が、棺のなかの父母や祖父母の顔をのぞき、石のように冷えた額にさわる。なかには「おばあちゃん!」と、棺にとりすがり泣きじゃくる孫娘もいる。よほど祖母に愛されたのだろう。それに高価なユリやバラが、惜しげもなく棺を埋めつくす。だれも「もったいない」と言わない。できれば、もっと入れたい気持ちだ。
「もったいない」と叫んだのは、イエスを裏切ったユダだ。ひとりの女性が、300万円もする高価なナルドスの香油の壷を(たぶん布に包んで)割り、いっきょに十字架直前のイエスの頭に注ぎつくしたときだ(マルコ福音書14章)。イエスはこれを「埋葬準備」納棺の花と見られたがユダは無駄と見た。この女性は、壷の栓を抜けば、香油を残すことも出来たのに、壷を「粉砕」(スンツリプササ)して残りなくイエスに捧げ、まだ足りない思いだったにちがいない。愛は惜しみなく捧げさせる。すごい芳香がイエスを包み十字架上まで香りは残ったはずだ。
棺を抱いて「逝くものは斯の如きか、昼夜を舎かず」と、去ったあの先生、かの友人、この父母、祖父母をしのび、河の流れの行く先の大海を思い、永遠を望むのもよいが、目を転じて、上流をふりかえれば、「来るものは斯の如きか、昼夜を舎かず」と、押しとどめがたい勢いで、新しい流れが押し寄せる。ここに希望がある。新しいのちが、子や孫や、後輩や弟子となって、とめどもなく流れ来る。哲学者・西田幾多郎のいうように、わたしたちは「永遠の今なか」を生きる。イエスと共に。
神の国は、じつに、あなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17・21、口語訳) <写真は庭の凌霄花(ノウゼンカ)>