妻と歌う朝の讃美歌

shirasagikara2012-07-23

かれこれ一〇年も前から、毎朝食前に「讃美歌」(日本基督教団刊)の中の、わたしが歌える歌を番号順に選び、妻と声をあわせて歌います。そのあと彼女が聖句を読み、わたしが祈ります。わたしは欄外に歌った年月日と、ときにはその日の事件や、家族の出入り、妻のことばを記入します。一〇年もつづけると欄外は日付が満載です。
その妻のことばですが、わたしは一生懸命歌っているつもりでも、妻にはときに耳ざわりになるらしく、九四番(久しく待ちにし)は「半音おかしい」とか、一三三番の(夜はふけわたりぬ)は「こんな名曲をひどいわ」と笑います。三四三番(こよなき恵みの)は「あなたは半音下の短調よ、だからさびしい歌になる」とか、三七三番(うれしや春べは)で「二カ所おかしい」といわれても、どこかおかしいかわかりません。また「作曲者に失礼」「楽譜が怒る」とたしなめる記録もありますが、時には一六九番(聞けよやひびく)で「歌い方一〇〇点」とほめてもくれます。
歌い終わると、彼女は讃美歌の右上の作曲者と左上の作詞者を調べ、「これは一六世紀の作詞」「これは日本人の作詞作曲」とか、「アナニマス、不明ね」と申します。
「これはシベリュウスのフィンランディアよ」とか、「アシジのフランチェスカだわ」とか、「ウエスレーはすごい、これもよ」と小さな横文字を見つめます。わたしは「ルーテルもすごいぞ『神はわがやぐら』は作詞作曲だ」と答えます。
残念なのは、「讃美歌」は五四八番まであるのに、家内と歌える讃美歌が半分もないことです。ところが最後の「雑」(四九一〜五三八番)はほとんど歌えます。いい歌が多いのです。「雑」は偉い。
こんなわたしでも、農村の集会では讃美歌の指導をします。あるとき、音大を出た女性を連れてゆくと「全員、同じところで曲を間違えます。藤尾さんの指導ね」とやられました。讃美歌は半音違えても大事ないが、聖書の話でピントはずれがあっては申し訳ない。「あなたがたは集まったとき、それぞれ詩篇の歌をうたい」(第一コリント一四.二六)
<写真は庭の玉龍の小花>