風、風合い、風格、霊

shirasagikara2012-09-03

新涼の九月になった。この2012年、日本の夏は暑かった。東京でも35度を越えた日はざらだ。「机熱し子規漱石も耐へたらむ」(正人)。そのとき、す〜と風が吹き込むと、その細い流れに、なんともいえぬ涼しさをかんじる。「ああ、風だ」。
日本語には、この風にまつわることばが多い。「風格のある人物」「風雅な生活」「風味がある」「風合いがよろしい」「風采があがらぬ」「風体がよくない」「風土のちがい」「風俗」「風習」「風紀」「風評」「風説」「風聞」。
この「風」は、目に見えない。手でつかめない。しかもふわっと大きい。どこから来て、どこへ行くのかわからない。つまり、とらえどころがない。だから「風」の入る単語はみな、うまく表現できないが、なにか大きな全体像を模索している。「この京料理は風味がある」と言えば、なんともいえぬ上品な味わい深さを意味するし、「この麻のお召し物は風合いがいい」と言うと、手ざわりだけでなく、ことばであらわせない着心地のよさがふくまれる。
おのずから備わった「大人(たいじん)の風格」の人がいる。信仰の師・酒枝義旗先生にそれがあった。あるとき、いまはなき待晨堂書店の市川昌宏さんが、酒枝先生を見つめながら、わたしにこう言った。「先生には、総大将の風格がありますね」。さすが元陸軍大尉。納得。
わたしは先生の小さな写真を、いつも勉強机近くの棚に飾っている。それは待晨会堂の壇上で、羽織袴の和服を召し、松竹梅の掛軸三本の前に立たれた姿だ(写真)。おそらく先生70歳台だが風格がいい。「風格」が内がわの人品骨柄、ふんわり大きな存在感を意味するとすれば、先生のやわらかな肩の線、力を抜いた自然体の見事な風格がそこにある。
この「風」が、聖書では「霊」と同じ意味に使われる。ユダヤ人、ギリシア人のすごさだ。風に霊を感じるとは深い。日本人は風に漠然とした「大いなるもの」を感じたが、彼らはその奥の、霊、神を見抜いたのだ。もちろん日本語にも「風神」の語はあるが、風袋をかついで天をかけめぐる鬼にすぎない。霊の意味合いはない。九月、涼しい風よ、霊よ、吹き来たれ。
「悲しみのきわみにありて風を静め湖を歩みたまひしイエスを信ぜむとす」(南原繁
「風(プネゥマ)は思いのままに吹く。、、、霊(プネゥマトス)から生まれた者も皆そのとおりである。」(「ヨハネ福音書」3・8)