「いや、英語はたいしたものです」

shirasagikara2012-09-17

あるとき、酒枝義旗先生のご自宅の書斎に、数人で集まったさい、ある友人が「先生、彼はドイツ語はできませんよ」と言った。すると酒枝先生は、すかさず「いや、英語はたいしたものです」と答えられた。先生は「出来ない弱点」を突くのでなく「持っている長所」をつかみ出されたのだ。
基督教独立学園高校の音楽教師だった桝本華子先生は、「ダイヤをまわせ」とよく言われた。ダイヤモンドは、ある角度でキラリと光る。高校生を見ていて、ひとり一人、光る角度が違う。ある生徒の輝く角度と、別の生徒の輝きかたはことなるが、みないいものを持っている。その生徒の「持っている長所」に着目しての教育を目指されていた。
それらは、イエスが荒野で群集に「パンの給食」の奇跡をされたとき、わずか「5つのパン」に注目されたのと同じだ(マルコ6章)。弟子は給食準備を命じられ、5000人の群集に「200デナリオン(200万円)のパンを買って食べさせるのですか」と嘆く。そんな大金は「ない」し、それを売るパン屋が「ない」と考えたからだ。しかしイエスは、「パンはいくつ『ある』か、見てきなさい」と言われる。弟子は「ない」ことで心配したが、イエスは、たとい小さくても「ある」ことに着目され、それをつかんで大きく伸ばされる。
わたしには「財産もない」「あれもない」「これもない」と「ない」ことを考えて落ち込むか、いや、きょうも、立てる、歩ける、胸いっぱい息が吸える、字が読める、語りあえる友がおり、働くべき職場があると「ある」ことを数えるかとでは、生き方に天地の開きが出る。
エスさまの前につれてこられた子どもは、金は「なく」、力「なく」、役「たたず」だったが、親にたいする信頼が「あり」、親と共にいる喜びが「あった」ので、イエスは「天の国はこのような者たちのものである」と抱きしめられる(マタイ10・14)。
エスは「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」(マルコ10・16)<写真は庭の蝉殻>