一点突破、福音のよろこび

shirasagikara2012-11-26

徳善義和著「マルティン・ルター」(岩波新書2012年6月刊)によると、ルターは、1511年にヴィッテンベルグ大学の聖書教授に任命され、まず詩篇講義から授業を始めた。テキストはラテン語詩篇全編を印刷して学生に配り、それに「全詩篇はキリストの詩である」という序文をつけた。
ところが、詩篇31編2節の「あなたの義によってわたしを解放してください」(ラテン語訳)で、はたとゆきづまったという。なぜ「義」(神の裁き、怒り、罰)が、「救い、解放」と結びつくのか。そして、はっとわかったことは「神の義」が「神の恵み」であることだった。人間の行いや努力で神に受け入れられるのでなく、キリストにあって「義」と「救い」が結びついたものと示された。ここからルターの「十字架の神学」が始まる。
ルターはこのことを、「塔の体験」と呼ばれる修道院の塔の狭い小部屋で示されたという。以来聖書は、ルターにまったく別の顔を見せた。神は恐ろしい「裁きの神」ではなく「恵みの神」となった。これを徳善牧師は「一点突破」と呼び、宗教改革の全面展開へと道が開けたとしるす。
この「塔の体験」を読んで、わたしも、まことに小さいながら、1948年の初春、東京中野区天神町の下宿屋の三帖の狭い部屋での体験を思いだした。そのとき「ああ、そうか」と福音がす〜とわかり、目の前が大きくひらけ、みどりの大地に立つ心地がした。中野区鷺宮の酒枝義旗先生の集会に出ていたころだ。そのころ月曜日から先生の聖書講義を待った。水曜日になると「日曜が近づいた」とよろこび、土曜日は「いよいよ明日だ」と勇みたち、日曜日は鷺宮の酒枝先生宅へと走った。帰りは、近くのルーテル神学校の桜並木に沿って、聖書を縛った風呂敷を空に投げ、走って受けて喜び走った。
福音がわかってから、空を見ても、樹を見ても、まったく別の色に見えた。その喜びが今も同じ強さでつづいているのではない。しかし感謝の記憶として強く残っている。わたしにとっての「三帖間での一点突破」だ。信仰の原点になった。
「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう」(黙19・7) <写真は庭の柿、ことしは生り年>