あすのパンを、きょう与えてください

shirasagikara2012-12-17

もうすぐ88歳になる老人が、毎週ブログエッセイを書いています。だいたい週に100人ほどが読んでくださっているので、老人でも、居ながら、100人の方に文書伝道ができるわけで、ありがたいことです。このブログは2006年から始め、その年は365日休まずエッセイを書きました。そのころ、家内が「あす書くことあるの」と心配してくれました。「マナが降る」と答えました。2007年から月曜ブログに替えて週1回としました。そして6年、毎週書いてこられたのです。マナは降りつづけています。
エスさまが教えられた「主の祈り」に「必要な糧を今日与えて」とあります。しかしこの「必要な」(新共同訳)の原語(エピウシオン)は、「次ぎの日」の意味があります。たとえば「使徒言行録」7章26節、23章11節は同じ言葉を「次ぎの日」「その夜」(ユダヤでは夜から翌日になる)と翻訳しています。ちなみに新改訳は「日ごとの」。口語訳も「日ごとの」。文語訳は「日用の」。塚本訳は「その日の」と、すべて「次ぎの日」ではありません。
ではなぜ、学者が「次ぎの日」を「その日」や「日ごと」としたのでしょう。主の祈りのあとの、イエスの「あす(アウリオン)のことを思いわずらうな」の言葉と符節をあわすためだと思います。だがイエスは「思いわずらうな」と言われましたが、「用意するな」とは言われません。
わたしがブログを書くとき、次の朝掲載する内容を、今日いただかなくては困るのです。「必要な」とか「日ごと」などと、悠長な、のんきなことでは毎日、毎週書けないのです。学生はあすの試験に今日必死に備え、牧師は次の聖日の説教を前週懸命に準備するのです。そして、明日どうしても必要なものが、きょう整えられたら、どんなにうれしいでしょう。「ああ、出来た」と喜びます。ブログも同じです。
ドイツの聖書学者アドルフ・シュラッターは「明日のために必要なパンを、今日わたしたちに」と訳しています。これでわたしもほっとします(新約聖書講解・新教出版社刊)。
「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイ福音書7・7) <写真は、師走に咲いた庭の小賀玉の花>