成熟する日本、成熟した信仰

shirasagikara2012-12-31

穀物や果物でも、人間や社会や国家でも、中身が充実して成熟することが大事だ。そしてキリスト信仰も同じ。
2012年もきょうで終わる。この1年、日本は少子高齢化に経済不振で国力も縮んだといわれるが、それでも世界に冠たる経済力を持つ。これからの日本は、むしろ内なる成熟を目指せばよい。この9月、尖閣問題で中国人が暴徒化して数十の都市で日系店舗を略奪したときも、日本国内は冷静だった。成熟の印だ。総選挙で民主党をおろし自民党を再登板させたが、民主党も侮れない存在になるかもしれない。なぜなら以前の民主党は万年野党で政権運営の経験がなかった。しかし3年とはいえ政権を担った実績は国会論戦に厚みを加えるに違いない。これも成熟に向かう一面だ。
日本社会は、徳川幕藩体制以来地方文化の成熟度が高い。問題もいっぱい抱えながら、国民生活のレベルといい、教育や医療水準の高さといい、この日本社会を平均した成熟度は、欧米と並び世界でも頭抜けているのではないか。フィリッピン女性が日本の東北人と結婚し大震災に遭った。夫はふたりでフィリピン移住を考えたが、妻は「こんなにすぐ仮設住宅を造る国を離れて帰りたくない」と拒んだという。
NHKで全国を自転車で走る旅番組がある。どんな田舎の横丁までも道路も標識も整備されている。先年わたしも四国の足摺岬から広島県尾道まで車で走ったときそれを感じた。また農家をたずねる番組でも、家屋も生活も都会とかわらない成熟さに驚く。それが北海道から九州まで同じだ。「なんでも鑑定団」の地方出張番組で津々浦々の会場のりっぱなこと。これらは日本の生活水準の高さと成熟度をしめしている。
キリスト信仰にも「成熟」の瞬間がある。それは「人間の熱心」から「主にある熱心」に移ったとき、「硬い熱心」から「柔らかい熱心」に脱皮したときだ。そのとき「主の熱心」が見えてくる。「主の熱心」がまずあって、それに「主にある熱心」が従い、自分の立場はちゃんともちながら、教派がどうの洗礼や礼拝がどうのと言わなくなると「柔らかくて弾力があり、しなやかでへこたれない、成熟した信仰」に入れられている。
「あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる」(申命記11・12)<写真は庭の熟柿をついばむ鳥影>