米寿・88年の回顧

shirasagikara2013-01-07

「この子は、はたち(20歳)までは生きない」と医者に宣告されたわたしが、昨2013年1月6日、88歳の米寿を迎えた。主のあわれみだ。わたしは産まれてまもなく乳が飲みにくく泣き叫んだという。親はそれが口内炎と分からず、乳児は力んで脱腸ヘルニアになった。幼稚園で脱腸が出て、和服袴の保母さんが腹が痛いと泣くわたしを横抱えに走ってくれた記憶がある。親の手当ての甲斐もあり、主が小学1年生から元気にしてくださった。3年生のころ運動会に遅れて来た母が「あの子、こんまいのに速い速い」という声に、人垣からのぞくと「正人が一番やった」と笑った。
両親は「この子がはたちまで生きていたら、主のご用に捧げます」と祈ったと、よく聞かされた。しかし、それは親と神さまとの約束で、わたしとは関係ないと思っていた。そのはたちになった1945年1月は帝国陸軍にいた。「ああ、そうか、はたちまで生きないとは戦争で死ぬことか」と思った。
陸軍に入る前、戦争で虫けらのように死ぬのがいやで、永遠の命を求め、悩んだすえキリストを信じ洗礼を受けた。日本の敗戦後、不思議な主の導きで、1948年から酒枝義旗先生宅の聖書講義に出席を許され燃え上がる福音の喜びを知った。10年先生の薫陶を受けた。
そのころ塚本虎二先生の聖書翻訳助手だった白井きく先生がわが家に同居され、ギリシア語を毎週教えてくださり、福音書からガラテヤまでいっしょに読んでいただいた。また下宿に近かった政池仁先生に「定年になって伝道しようなんていうのは、自分の人生のうまいところは食べ終わって、かすを捧げるようなものだ」という言葉が、あの両親と神さまとの約束を思いださせた。
わたしが伝道者でいられるのは、酒枝先生で知った福音の喜び、政池仁先生に教えられた伝道者魂、白井きく先生に学んだギリシア語があってのことだ。わたしは勤めていた国立国会図書館が、人材の森のように多士済々で、楽しくてたまらず、なかなか辞められなかったが、政池仁先生のことばに押されて51歳で伝道者にされた。そのあと清水の舞台から飛び降りるような息を呑む生活が待っていたが、主が養ってくださった。
「あなたは長寿を求めず、富を求めず、、あなたの求めなかった、富と栄光も与え、、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」(列王記3・11〜14) <写真は庭の赤いサザンカ