電動自転車とキリスト信仰

shirasagikara2013-01-14

わたしの米寿の祝いに、三人の子から電動自転車が贈られた。これまで近くのスーパーへ走るさい帰りの坂がきつかった。自転車の前後のカゴに重い買い物を載せ、坂の手前からスピードをつけて一気に二段ギアを操って駆け上がる。「なんだ坂、こんな坂」と怒鳴りながら。それが電動だと、前を走るあんちゃんが、お尻を上げて必死に漕いでいるうしろを、涼しい顔で見る見る追いつくのだ。
電動自転車は、左指の簡単な操作で漕ぐ力を上げたり下げたりできる。まるで自分が漕ぐのでなく、ペダルを踏むとすいっと倍の力で車輪が進む。こりゃ楽しい。そのとき思った。これはキリスト信仰の「熱心の段階」の変化と同じだと。
キリストを信じた最初のころは、キリストに従って励まなくてはと、肩に力を入れて、困難があっても「なんだ坂、こんな坂」と、殉教もいとわぬ覚悟で走りまわるものだ。これはまだ「人間の熱心」の段階。しかし人間の熱心は他人を審く。「わたし一人残りました」と誇ったエリアのように(列王記上19章)、「みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と豪語したペトロのように(マタイ26章)、人を審く「固い熱心」だ。
その「人間の熱心」が、エリアは「わたし一人」と思ったのに7000人もの忠実な連中が残っていることがわかり、ペトロは三度も主を裏切り、二人とも、自分自身がポキット折られて「人間の熱心」から「主にある熱心」に変えられた。「おれが」「わたしが」という自分の熱心が消え、「主の熱心」に支えられている自分が見え出すのだ。
日本の「お神輿」は人間が神さまをかつぐ。聖書の神さまは、人間が支えようとするその手を振り落とされる。あの「ウザ撃ち」のように(サムエル下6章)。これがわかったとき「主にある熱心」が始まる。すると電動自転車のように、力まなくてもすいっと走れる。そうだ、主がいっしょに走ってくださるのだ。主に包まれて走るのだ。だから足も軽い。自由になる。うれしくなる。人間の熱心、固い熱心から、主の熱心に包まれた、主にある熱心、柔らかい熱心に入れられるのだ。
「主の熱心がこれをされるであろう」(列王記下19・31、口語訳)<写真は庭のアブチロン