電子書籍で漱石の「三四郎」を読む

shirasagikara2013-01-28

電子書籍で初めて本を読む経験をした。キンドルkindle)のタブレットで、夏目漱石の「三四郎」を再読した。そして二つのことを思った。
第一は、むかし読んだはずなのに、細部はほとんど忘れて新鮮な思いがしたこと。いや、若いとき読んだのとはちがう漱石の深みに近づけた思いさえした。また読んだ記憶がよみがえる。日露戦争に勝って浮かれている日本人に「この国は滅びるね」と予言したこととか、美弥子が、教会の礼拝が終わり階段を降りるのを、三四郎が迎えるくだりなどだ。また広田先生を友人の与次郎が「大いなる暗闇」と評したが、酒枝義旗先生が、待晨堂書店主・市川昌宏さんをいつも「大いなる暗闇」と呼んでいられたのを懐かしんだ。
第二は、電子書籍の長所と欠点。長所はなにしろ読みやすい。漢字もかなに工夫されている。それに活字の大きさは自由に変えられる。またタブレットが片手に入る。それが200gと軽い。卵4個だ。そのうえ、漱石全集はおろか、国語辞書、英独仏語辞書はもちろん、すごい量の文献が収まってこりゃ便利。病気になったらぜひ病院に持ち込みたい。しかし不便もある。感銘を受けた箇所、おかしいと思う場所、そこに傍線を引けない。欄外に注記を入れられない、と思ったが「ブックマーク機能」があって、それも解決できそう。しかも一覧で見られる。すごいものが出来たものだ。
このキンドルを、尾上守夫先生から渡されたとき、わたしの「インターネット聖書ばなし」の第1巻の「イエス・キリストの福音」が、すでに電子書籍に入っていた。ありがたいことに、さらにわたしの「短文集」を、このキンドルに無料登録しようとの準備までしていてくださっているのに驚いた。
むかしはインク壷にペンを突っこんで原稿用紙に書いた。指が黒くなった。それがボールペンになり、ワープロになった。そのワープロがパソコンにのまれた。そのパソコンが、タブレット型コンピューターのiPadにのまれている。時代は動く。電子書籍の時代が来たのだ。この大波は押しとどめられない。ただ旧い日本人のわたしなどは、ふだんは紙の本をめくり、聖書は指につばをつけて、少しずつ読むほうがありがたい。
「旧いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(第2コリント5・17)<写真は庭の蝋梅>