「この人は大工ではないか」

shirasagikara2013-02-04

エスさまが、故郷ナザレの会堂で説教されたとき、あまりのすばらしい話に驚嘆して、人々が叫んだのが「この人は大工ではないか」という言葉です(マルコ福音書6章)。100の値打ちがあるものを100と評価せずに、割引いてケチをつけているのです。
「知ってるぜ、イエスという男の正体を」「たかが大工の子せがれだ」「親兄弟姉妹の素性も万々承知」「たいした家の出じゃねえや」という「マイナス評価」です。
これはむかしから日本にもあること。「町人の子じゃないか」「百姓のせがれのくせに」。いまも「女だてらに」「高卒だ」「中卒だ」という声が聞こえます。
これらの差別をひっくり返したのがイエスさま。ご自身、祈りに祈って選ばれた12人のお弟子さんは、おしなべて身分の低い人たち。いまでいう「大卒」「院卒」はひとりもいません。そのうち4人は「ガリラヤ湖の漁師」。さらにマタイはユダヤを支配するローマ帝国のため税金を集める「徴税人」。当時「徴税人」はローマの手先で「罪人」と呼ばれ「神の救いの外」の人間でした。熱心党のシモンは、そのローマへの反税闘争の党員。
弟子選びだけではありません。すること、なすこと、語ること、そのすみずみまで、イエスさまは差別をうち砕かれました。「低い者が高い」「小さいものが大きい」「ビリが先頭に立つ」と教え、救いの外に置かれた「徴税人や遊女が、あの信仰熱心な連中より、真っ先に天国に入る」とまで言い切られたのです。
大事なのは、その本人の中身です、実力です。イエスさまが見つめたのは、漁師ペトロの誠実でした。徴税人マタイの仕事熱心でした。ナタナエル(バルテマイ)の「偽りのない」人柄でした。
「この人は大工ではないか」。いいかげんに、こんな「マイナス評価」はやめましよう。なぜなら他人を「マイナス評価」する本人が、自分自身をおとしめることになるからです。「小卒」の吉川英治が、すごい作品群を残したことも、「小卒」の五十嵐健治が、あの白洋舎をつくられたことも、わたしたちがよく知っているからです。
「イエスは、人々の不信仰に驚かれた」(マルコ6・6) <写真は庭の蝋梅>