「つくる人」と「見る人」

shirasagikara2013-02-25

世の中には、「つくる人」と「見る人」がいる。芸術作品を「つくる人」がいて「見る人」がおり、詩や小説を「つくる人」と「読む人」がいる。テレビ番組を「つくる人」がいて「見る人」がいる。すべて、どちらが力に満ちているかというと「つくる人」のほうだ。たとい小さくても、わたしたちが「つくる人」になると、その人を生き生きさせる。そして「見る人」でも、「わたしもやるか」という気持ちひとつで「つくる人」になる。
小は、小学生が「学級新聞」を「つくる」ことや、主婦が工夫して料理を「つくる」ことに始まり、中小企業の職人さんが、熟練の技でほかでは出来ない製品を「つくったり」、大は、企業を立ち上げるとか、政権交代で新しい「国づくり」をするとか、何か新しいことを始めると、その人たちは熱を帯びる。
ところで、「つくる人」は、まず「見る人」になる必要がある。画家や、歌人俳人などは、対象をじっと「見つめ」て作品を「つくる」。作曲家は心の耳をすまして、音を「聴く人」になって曲を「つくる」。演奏家や歌手は、曲を「聴きこんで」音を「つくる」。だから、「つくる」ためには、小学生にしろ、主婦や、職人や、芸術家にせよ、まず「じっと見る」ことが大事だ。そして「深く見た者」が「深い作品をつくる」。
エスさまは、全人類の完全な救済を「つくった」。だがその前に人類の罪を「じっと見られた」。人間が自身の罪を自分の力で解決できないことを「穴が開くほど見つめられた」。
伝道開始の「山上の説教」で、「神が完全であられるように、あなた方も完全であれ」とか、「右の頬を殴られたら、左の頬も向けよ」と叫ばれたが、完全でありえない人間、暴行を受けて無抵抗を貫けない人間の弱さを、ず〜と見つづけられた。だから最後に十字架が立った。十字架で、罪なきイエスが罪そのものとなって死なれ、罪ある者が罪あるままに罪なき者とされた。つまり有罪と無罪が逆転して福音が完成した。イエスさまも、「じっと深く見る人」になって、初めて大いなる救いを「つくる人」になられたのだ。
「キリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」(?コリント1・30)<写真は庭の紅梅>