上を向いて話そう

shirasagikara2013-03-04

三月になった。桃の節句だ。娘が結婚してアメリカで孫娘を産んだとき、日本から雛人形一式を送った。ふつう雛飾りは5段に15人が並ぶ。最上段は男女の「内裏」。2段目は「三人官女」。3段目は「五人囃子」。4段目は「左大臣、右大臣」。5段目は「衛士」3人だ。いずれもつるんと顔がきれい。「人形は顔が命」というが、とくに内裏雛はすごく上品。「きれい」で「かわいい」。
朝日カルチャーで木彫を習ったとき、多摩美大の中嶋教授の口ぐせは「きれいに彫るな、人形じゃねえんだ」。たしかに人形と彫刻はちがう。人形は「きれい」だが、いのちが感じられない。このごろ日本では「かわいい」「きれい」の女性語が流行って、男性でも「イケメン」「イクメン」がもてはやされる。「力強く男らしい」気風はどこに消えたか。
キリストの教会までも、祈りや説教で原稿を読む「きれいな祈り」「きれいな説教」がはびこっている。無教会も同じだ。いや説教がなく平信徒が交替で聖書を話す無教会では、かえって下を見て原稿を読む度合いが多い。旧い伝統のある教会では、祈祷書や礼拝式文が決められていて、やむをえない面もあるが、式文を読みながら、原稿を読みながらの「祈り」や「説教」は、ひな壇に並んだお雛様のように、きれいで間違いはないが、いのちがこもらない。聞く者の耳に入っても心に響かない。
演奏のためステージに立つとき、プロはもちろん高校生でも楽譜を見ない。自分のからだに覚えこませて奏でる。牧師や伝道者はもちろん、平信徒でも、決心すれば覚えこみ、聴衆だけを見て話せるはずだ。へたでもいい。自分のことばで話すのだ。北海道の釧路の教会で話を頼まれたとき、わたしの前に若い神学生が前講をした。話はまだぎこちなかったが、その顔は喜びに輝いていた。そのあふれる喜びが福音を伝える。
話の準備をする。下書きをつくる。それを覚えこみ、要点を抑えて、何度も練習し、ときに忘れたら原稿を見て、へたはへたなりに上を向いて話そう。「イエスさまこそ救い主」と。
パウロは、メシアはイエスであると力強く証した」(使徒言行録18・5)<写真は茶筅雛>