気になる能力、気にならない能力を、気にされないイエス

shirasagikara2013-03-18

台所が汚れたり、周りが騒がしいことに気づいた時、それがすごく「気になる人」と、あまり「気にならない人」がいる。そのさい、気になる人はきちんとした人、気にならぬ人は神経が鈍いと思われやすいが、はたしてそうか。
伝道者・政池仁先生の、ゆきえ夫人は、東京女高師(お茶の水女子大)時代、関東大震災のため女子寮は仮建築で、大部屋にたくさんの学生が起居した。「おかげで、騒がしくても平気で本が読め勉強する力がつきました」と言われた。「静かにしてよ」と言えない環境で、大事な読書に集中する「気にならない能力」がつちかわれたのだ。
線路脇の踏切りに近い家で長年家庭集会をした。初めは踏切りの警告音が気になったが、聖書を話し始めると気にならない。聞いている方も気にされない。一番大事な聖書に集中すると「気にならない能力」ができるのだ。
潔癖症の女性がいた。出産した友人をたずね部屋中が散らかっているのに気づいて「気になった」。そのあと自分も結婚出産して、子育てという大事の前には、部屋の散らかりは小さいことだと気づき「気にならない能力」ができた。つまり整理整頓と、自分や家族の健康のバランスを考え、一番大事なのは何かの価値判断力が出来た。
さて、イエスさまの弟子が麦の穂をちぎって、両手で揉んで籾を落とし生麦を食べた(マタイ12章)。彼らは日本語訳の「空腹」などでなく「飢えていた」(エパイナアサン)。ユダヤの律法では、飢えた者が麦を食べても罪にはならない。だだこの日は安息日だった。厳格信仰のパリサイ派が「麦の穂の籾を揉み落とすのは、安息日禁止の脱穀行為だ」と叫んだ。ここに「気になる能力」のパリサイ派と「気にならない能力」の弟子たちがいる。
そのときイエスさまは、一番大事な「飢え」を救うため、ダビデの故事を引き「飢えた者が安息日禁止条項を破っても無罪だ」と言い放たれた。いま何が大事かを見抜くイエス。「気になる能力」のパリサイ派も包み込み、「気にならない能力」の弟子もゆるして、それを「気にされない」。これが一番すごい。愛とゆるしがそこにある。やはりイエスさまが一番。
「人の子(イエス)は、安息日の主なのである」(マタイ12・8)<写真は庭の奥丁子桜、二つの花が一ヵ所から咲く>