「南無アッバ」それがいい

shirasagikara2013-04-15

キリスト信仰に入る道はいろいろ。しかし行き着く先は、いずれもイエス・キリストただお一人。
使徒パウロのように、キリスト迫害者からあざやかに回心する人もいれば、いつのまにかクリスチャンになる人もいる。罪意識に苦しみ抜いて救われた方もいる。苦しんで入信した方が偉いのではない。素直にイエスを信じた人がだめなのでもない。ただ苦しんで主を信じた方は、人を導くことができる。素直にイエスを信じた方は、その存在で主を証することができる。病気をしてイエスの愛がわかる人もいれば、友人に誘われたのが動機という方もいる。わたしなど戦争で死ぬのが残念でキリストを求めた。近ごろは最晩年になって入信される方々もいる。
岡崎の桐山義一・すずゑ夫妻は97歳と90歳で洗礼を受けられた。月島の中崎力信さんは93歳でみずから受洗を希望。埼玉の友人の勝原文夫君は3年前に87歳でキリスト信仰を告白。桐山さんも勝原君も入信の前、「信仰によって義とされる」がわからんと質問された。わたしは「『義とされるとは』あなたがイエスをキリストと信じると、キリストさまは、あなたの過去をふくめ丸ごと全部これから一切、死ぬまで、死んでからも、面倒をみるということだ」と答えた。ふたりは納得して信仰を告白した。「信仰を告白の夜や星冴ゆる」(文夫)
学者でもあり、俳人でもある勝原君は「これから聖書の勉強だ」と意気込んでいたので、わたしは「頭のいい神学者が、タテヨコ十文字に研究して、まだわからんという聖書を、いまさら勉強しても手遅れだ。ただイエスに全部おまかせだ」と話した。先日聖書の話に行ったときも「南無アッバ、おまかせだな」と笑っていた。それでいい。「訪ひくれる友ありがたし冬日和」「さやけしや一人祈るも南無アッバ」(文夫)
彼の好きな「南無アッバ」は、カトリックの井上洋治神父の造語だ。「南無」は「まかせる」「帰依する」こと。「南無・阿弥陀仏」は「阿弥陀仏」に「南無」する、まかせることだ。「南無アッバ」は、「アッバ・父よ」の「天の父・アッバ」に「南無する」まかせる意味だ。南無アッバ、いい言葉だ。日本人になじむ。
「思い煩いは、なにもかも神におまかせしなさい」(1ペトロ5・7) <写真は庭のツバキ>