イエスさま、死んではいけません。自殺者の救い

shirasagikara2013-06-03

わたしは、自ら命を絶った方の葬儀に三回あずかりました。一人は若い求道者でしたが、二人はすばらしい才能を持ち、深いキリスト信仰のかたでした。それも親代々の、信仰がからだに染みこんでいるお方たちでした。だれしもが「なぜ」「どうして」と驚き、落胆します。しかし、これは精神を病んだ病死なのです。
ダンテの「神曲」の『地獄篇』では、自殺者は地獄下層第二環の「自殺者の森」でうろうろしていますが驚くには及びません。ローマ教皇も高位聖職者でも地獄にいる方もおり、ソクラテスプラトンも地獄の住人です。
では聖書は何といっているのでしょう。イエスさまに十二人のお弟子さんがいましたが、ことごとくイエスさまを裏切るのです。なぜならイエスさまが「わたしは命を再び受けるために捨てる。だれもわたしから命を奪い取ることは出来ない。わたしは自分でそれを捨てる」(ヨハネ一〇章)、つまり自ら命を絶つと言われ失望したからです。ペトロは「とんでもない、先生、死んだらいけません」と諫めます(マタイ一六章)。
十字架の「死」を前にされたイエスさまの心を理解できなかった弟子たちは、自殺された方々の心を理解できないわたしたちの心と同じです。
「先生、あなたのように力があり、すばらしいお方は、もっと生きて活躍してください」。これが弟子の思い。同じく「なぜ、あなたのように才能にあふれ、愛が深いかたが、自殺なんかされるのですか」。これが人間の思い。では自殺者はダンテが記すように地獄落ちするのでしょうか。
エスさまですら自ら命を絶たれたのですから、イエスさまは自殺者もふくめ、イエスをキリストと信仰告白した者を、その者の過去からの人生、丸ごと全部、これから一切、死んでからも面倒をみてくださいます。
「今から後、主にあって死ぬ死人は幸いである。しかり、彼らは労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについてゆく」(黙示録一四章)。この「わざ(業)」とはなんでしょう。「イエスを信じること、それが神のわざである」(ヨハネ六章)との「キリスト信仰」が最大の「わざ」なのです。これが自殺者の救いであり、わたしたちの救いです。「わたしは命を捨てることもでき、ふたたび受けることもできる」(ヨハネ一〇章) <写真は庭の雪ノ下の花>