イエスさまが笑った「この者、見込みあり」

shirasagikara2013-06-24

聖書にイエスが泣かれた記事はあるが(ヨハネ11・35)、笑われた記録はない。しかし「イエスは喜びにあふれて」とある(ルカ10章)。喜びにあふれるとき、その人の表情はゆるみ笑顔になる。イエスも笑われたのだ。

エルサレムの資産家の青年が、「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいか」とたずねた(マルコ10章)。イエスは、モーセ十戒のうち「殺すな、姦淫するな」などの五つの掟を示される。青年は「わたしは、子どものときから守ってきました」と、真剣な表情をほっとさせた。このときだ、イエスがにっこりと笑われたのは。「イエスは彼を見つめ、いつくしんで(愛して)言われた」とあるのでわかる。人は愛する相手に微笑むもの。

この青年がほっとした表情を見せたとき、イエス破顔一笑されたのはなぜか。「この者、見込みあり」と見られたからだ。同時に鋭い言葉の矢を放たれたのはなぜか。永遠の命を「もらう」ことに熱心で、「捨てる」ことを知らない心を教えるためだ。イエスの教育は、まずほっとさせてから信仰のツボを教えられる。
ちょうどペトロが「あなたはメシア」と告白したときも、「この者、見込みあり」と見られ「お前は幸い」と破顔一笑され、すぐあとに「サタン、引っ込め!」と鋭い言葉で叱られたのと同じだ(マタイ16章)。

だから一転、青年はぎょっとする言葉を耳にする。「あなたに欠けているいるものが一つある」「財産を売り貧民に与え天に宝を積みわたしに従え」。イエスが「欠けた一つ」といわれたのは、財産放棄という「行為」ではない。足りないのは財産放棄しても主が養われるという「信仰」だ。
ルカ10章で、喜びにあふれられたのも、弟子の伝道報告を聞き「この者たち、見込みあり」と見られたときだ。ケセン(気仙)語訳で有名な山浦玄嗣の「ガリラヤのイェシュー」(四福音書の日本各地方言訳)では、フェニキアの女性が「犬ころでんも、子どもらのこぼした飯粒は食うもんですたい」と答えると、イェシュー(イエス)は「にっこり笑って」と訳されている。「この外国女性、見込みあり」と見られたのだ(マルコ7章)。聖書はおもしろい。

「あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました」(エレミヤ15・16)<写真は庭のストケシア・浅田正吉先生特愛の花>