69回目の敗戦記念日・老兵の回顧

shirasagikara2013-08-12

「われ米寿はたちの夏ぞ国敗れ」。1945年8月15日。暑い夏の正午でした。天皇玉音放送を聞いたのは香川県西北端の岬の浜辺でした。当時わたしは四国の陸軍船舶幹部候補生隊にいて、その前日、香川県豊浜を敵前上陸用舟艇で出航し、広島県鞆の浦までの夜間無燈火航行訓練を終えたときでした。性能の悪いラジオでほとんど聞き取れませんでしたが、中隊長が日本は負けたと告げました。
その夜、兵舎の周りの民家は一斉に電灯がともり、白い浴衣で歩く人もおり、「ああ平和だ!」と感動しました。近くの詫間海軍航空隊から飛行機が飛来して「徹底抗戦」を訴えるビラを撒きました。陸軍士官学校海軍兵学校など、職業軍人学校の生徒は、8月中に帰郷しているとのことでした。彼らは米国へ捕虜にされるからだとデマが飛びました。
そのあと、本土決戦用に備蓄していたジュラルミン容器入の食料が放出され、かえってうまいものが出されました。来る日も、来る日も、大きな海図やマル秘資料を焼きました。東条英機に署名してもらった「日の丸」を焼いた戦友がいました。わたしは高村光太郎が揮毫してくれたので焼きませんでした。
候補生より位が下なのに威張っていた用度係下士官は、捕まえられ、10人ほどで放り上げられドスンと落とされ、悲鳴をあげて逃げても、新手に放り上げられては落とされるのです。ふだんの人徳がものをいいます。人徳のない将校の命令はだれも聞かなくなりました。「きょうは階級章なし!」と中隊長が叫びました。大日本帝国陸軍が崩壊してゆくさまを、内側からこの眼で見ました。
やっと両親の住む姫路に着いたのは9月下旬でした。将校行李ひとつかついで早朝の駅前通りを行くと、広い道が空襲で焼け崩れた建物でジグザグでした。その突き当たりの練兵場まで来ると、夏草が人の背丈も伸び、そのむこうに無傷の姫路城が白壁を黒く塗られて、うそのように堂々とそびえていました。口を突いて出たのは「国破れて山河在り、城春にして草木深し」の杜甫の詩でした。キリスト信仰の師友に出会うすばらしい戦後の始まりでした。
「若いときに軛(くびき)を負った人は幸いを得る」(哀歌 3・27)<写真は麗し門のペトロと乞食>
[朝日新聞・8月15日朝刊に「68回目の終戦記念日」とあるのは「68年目」の誤りでないか。「回」と「年」は違う。仏教も2年目を3回忌という。本稿は69回とした]