「こんなもんでしょう」から「まさか」へ

shirasagikara2013-08-19

「まあ、こんなもんでしょう」が口癖の人がいた。「きょうは猛暑ですね」「まあ、こんなもんでしょう」。「寒いね!」「まあ、こんなもんでしょう」。これではにべもない。感動がないからつまらない。ただ暑さ寒さも喜怒哀楽さえも、ありのままに受け入れるガマン強さには感心した。
この方は1945年夏の日本の敗戦時、旧満州の兵営にいてソ連(ロシア)軍の捕虜になり、数年シベリアへ送られた。60万人の日本兵・軍属が連行され、極寒と栄養不良と強制労働で5万人が死んだ。巨木を切り出し凍土に鍬を撃ち込む。そのときの経験が「こんなもんでしょう」という諦めになったのでないか。逃げられないし、逆らっても、どうなるでもないという現状肯定だ。
だから、その体験に裏打ちされて、何が起こっても動じない。あわてない。辛抱強い。奴隷がそうだ。過酷な命令に反抗できないし、しない。「まあ、こんなもんでしょう」は、一番低い生活を強いられた経験からの発言だ。
しかしキリスト信仰は、「まさか」という驚きから始まる。神の子が人間の姿をとった、「まさか」。無罪のイエスが有罪になった、「まさか」。そのおかげで、有罪の人間が無罪にされる、「まさか」。修行を積んででなく、そのまま、イエスを信じるだけで、罪ゆるされ、永遠のいのちが約束される、「まさか」。「まあ、こんなもんでしょう」には驚きがない。「まさか」には新鮮な感動と喜びがある。
原始キリスト教会には、ローマ帝国で奴隷にされた人々が、多くクリスチャンになった。なぜか。奴隷からクリスチャンへの転換は、「こんなもんでしょう」から「まさか」への飛躍だ。現状は変換クリックできないと諦めていたのに、現在のあるがままの姿で、それを突破できる道があった。それがキリストの福音だ。「まさか」と奴隷たちは喜び、教会に馳せ集まった。社会の一番低いところに強制連行されていた人々が、社会の一番低いところを歩かれたイエスに救い上げられたのだ。「まさか」と狂喜しながら。
「不信心な者を義(無罪)とされる方を信じる人は、(修行努力の)働きがなくても、その信仰で義(無罪)と認められます」(ローマ4・5)<写真は庭のギボウシ