祈った者より、祈られた神が

shirasagikara2013-08-26

「フランクリン自伝」(岩波文庫)によると、「金を貸して」と頼んだ人より、頼まれた人のほうが、その返済期日をよく覚えているという。借りた人は金を手にして喜び、返済はずっと先と一安心するが、貸したほうは確かに返すかと「返済のこと」が気になるからだ。
それと同様、ものを頼んだ人より頼まれた人が「そのこと」を気にするものだ。たとえば講演を頼まれて引き受けると、わたしなど気が小さくて、ずっと「そのこと」が気になる。何を話すかと心を砕く。話を組み立てる。原稿をつくっては打ち直す。それを覚える。持ち時間を計って練習する。頼んだほうは「お願い済み。これで安心」と、あとは会場の予約、広告準備をすれば、ずっと先のその日までゆったりできる。
いくつか葬儀を頼まれている。まだまだの方もおり、100歳すぎの方もいる。ご家族は司式を頼んで「これで葬儀はお願い済み」と喜ばれる。安心されたのか、そのあとだいたい連絡がない。電話しては迷惑と思われるのか中間報告も乏しい。頼まれたほうは「今か今か」と待つわけではないが、病状やご健康はいかがかと気になる。「そのこと」は、先かも知れないが、明日かも知れないからだ。
そこでわかった。神さまのたいへんさと、その忍耐が。「祈ったほうより、祈られたほうが」深く気に留めてくださるのだ。
わたしたちは、年中、神さまにお願いする。むこうは万能のお方だと、つぎつぎ世界中から、何億もの勝手だが真剣な祈りが立ち昇る。あの方の病気を、入学を、就職を、結婚をと祈る。神さまはそれを全部、聴き入れ、気に留めていられる。祈った者以上に。
そして一番よい方法で聴いてくださる。聴かれる祈りもあり、聴かれない祈りもある。その聴かれない祈りが、あとになると一番聴かれていることが多い。「そのときは悲しかったが、そのおかげで、いまのわたしがある」とわたしも思う。なぜなら、神さまは願った者より、ずっと深くその祈りを気にかけていられるからだ。祈ったほうは忘れていても、神さまは気に留めて、最善の解決を計りつづけてくださる。
「忍耐と慰めの源である神」(ローマ 15・5)<写真は庭の蝉殻>(「蝉多く羽化せし庭に蝉鳴かず」正人)