見知らぬ青年の来訪

shirasagikara2013-09-02

ある日、見知らぬ青年の来訪を受けた。その年の3月末日だった。聞けば、その日、彼は早稲田大学理工学部建築学科の大学院修士課程を終えて、あすから民間の建築会社に就職するという。来訪の理由はこうだ。
彼が早稲田の建築学科に入ったとき、父親から、上京したら、藤尾の聖書の話を聞けと言われたが、4年間1回も来なかった。ついで大学院に進むさい、必ず藤尾をたずねろと言われたのに2年間1度も来なかった。そこで学生時代の最後の日に挨拶に来たというわけ。
その親父は地方都市で建築設計事務所を経営する1級建築士。30年来の友人だ。そこでわたしは、その好青年に自分の入信の思い出や、軍隊での信仰体験を話し、彼が早稲田の学生なので、わたしの信仰の先生の早稲田大学政治経済学部教授だった、ゆかいな酒枝義旗先生の信仰談をして帰らせた。これで彼もわたしも、彼の親父への義理は立ったと思った。
ところがその夜、彼からメールが来て「つぎの聖書の話は、いつ都合がよいか」と聞いてきた。こうして、彼は毎月1回、建築会社で働くかたわら、聖書やキリスト教の話を聞き始めた。彼は顔を上げて笑いながら、また学生あがりらしく熱心にノートを取りながら通いつづけた。わたしは、自分の書いた「聖書のレッスン」や「インターネット聖書ばなし」を使ったり、聖書そのものの講義をした。話がハングルの構成や、パレトの法則にそれたり、自作の「ルツ記」の紙芝居もした。楽しくやって「旧約聖書のスケッチ」「新約聖書のスケッチ」も終わり、十字架、復活まで話し、最後に「洗礼を受けるか」と聞くと「はい」と答えた。彼が初めて来てから15ヵ月が過ぎていた。
キリストの導きとはこういうものだ。親父も、わたしも、彼自身も、思いもしない方向に進む。そして福音は人から人へと伝わる。そのさい、学問はあっても、すなおに聖書を聞き、すなおにキリストを受け入れる態度が大事。彼はいま故郷に帰り親父の仕事を手伝っている。結婚もし子どもも生まれ夫婦で親父の教会に通っている。
彼の両親も、おじいさん、おばあさんも、姉もクリスチャン。一家の喜びは大きい。天の喜びは、なお大きい。
「母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」(ガラテヤ1・15)<写真は庭の茗荷の花>