キリストの「上書き保存」

shirasagikara2013-09-16

きょうは「敬老の日」。米寿も過ぎると、むかしのことが懐かしい。国立国会図書館調査局にいたころ、200字詰の原稿用紙にやたらと調査報告を書いた。書くのは好きだった。積み上げれば天井に届くほど。だれしもGペンというペン先を、ペン軸に差し込み、インク壷に突っ込んで書いた。訂正箇所は線で消して行間脇の狭いスペースに細字で書く。手がインクで汚れ、それで鼻をこすって黒鼻を笑われたこともある。それがいまはパソコンの「上書き保存」で瞬時一発訂正だ。
パソコンの「上書き保存」という便利な機能は、その前のワープロからあったのか忘れた。パソコンに文章を打ち込み「しまった」と訂正するさい、間違いを直して「上書き保存」をクリックするとちゃんと直っている。なぜそんな初歩のことを喜ぶかといえば、むかし書き損じを直すのにすごく苦労したからだ。
曽野綾子さんが「老いの才覚」(ベスト新書)で、「日本は経済大国なのにどうして豊かさを感じられないのだろうか。答えは簡単です。貧しさを知らないから豊かさがわからないのです」と喝破されたが、文章手直しの苦労があったから「上書き保存」のありがたさが身にしみるのだ。
そしてふと思った。「上書き保存」。これはキリストの救いと同じでないかと。あの十字架の上で「すべてが完了した」との声を残してイエス・キリストが死なれたそのとき、大いなる「上書き保存」の力が働いて、さっと全世界の罪を覆い、ぬぐい去られたのだ。たとい、わたしたちの人生に、あのとき、このときの、罪や失敗が「間違い・訂正」の線を引かれ、汚れ、見苦しく渦巻いていようとも、わたしたちの上を、巨大な恵みの翼が覆いつくしているのだ。それがキリストの福音だ。それを信じるのがキリスト信仰だ。「キリストの上書き保存」。これが十字架の意味だ。
しかし、この「上書き保存」(恵み)を忘れると、せっかく書いた文章も一挙に消えてパーになる。そんな失敗を何度もした。「上書き保存」はキリストの救いの恵みの象徴だ。いまは「上書き保存」を「恵みの翼」と見立てて「ありがたい」「ありがたい」と、こまめにクリックしている。
「神は、無罪のイエスを有罪となさいました。それは、イエスによって、わたしたち有罪の者が、無罪判決を受けるためなのです」(第2コリント5・21)<正人・意訳>写真は庭の赤の水引草