湖畔のイエス、五つの「なぜ」

shirasagikara2013-10-06

「マタイ福音書」14章に、ガリラヤ湖でのイエスと弟子の物語りがしるされる。そこに5つの「なぜ」がある。
第1は、なぜイエスは急いで弟子と群衆を分離されたか。第2は、なぜイエスは一人祈られたか。第3は、なぜイエスは湖上で嵐に悩む弟子を救いにゆかなかったか。第4は、なぜ弟子はイエスに驚いたか。第5は、なぜペトロは湖に沈んだか。
第1のなぜ。イエスが弟子と群衆を離されたのは、弟子が5000人の給食の奇跡にたまげて、これを伝道の好機にしようとしたからだ。満腹した群衆と町や村々をまわり、われらの先生はすごいと宣伝したかった。しかしイエスは奇跡に驚く「キセキ信者」はダメと見る。だから「すぐに」「強いて」弟子と群衆を引き離される。
第2のなぜ。イエスは群衆を愛されたが群衆に迎合されない。イエスは一人になって神と向き合い、祈りの中でまことのご自分になられるからだ。
第3のなぜ。夕方に舟に乗せられた弟子たちは、翌日の夜明けまで湖上の嵐に悩まされる。 荒波の弟子たちを10時間も苦しめて救いに出動されなかったのは、最良の「主の時」を待たれたからだ。それは人間の力が抜け切って、神なしに生きることが出来なくなった時だ。
第4のなぜ。水しぶきを浴びてイエスが湖上に現われたとき、「幽霊だ!」と弟子たちがおびえたのは、たんに水上歩行に驚いたのでない。さんざんイエスの悪口を言っていたからだ。人の悪口を言っているとき、その本人が現れると驚く。主をお待ちしていたなら「先生、遅い!」と叫ぶはず。「こんなに苦しんでいるのに、ひどい」と大不満の最中だったからだ。
第5のなぜ。ペトロは「主よ、あなたでしたら」と疑う(新共同訳)。(長井訳は「もし汝でおはすなら」と疑問。口語訳は「あなたでしたか」と確認)。これは半信半疑の信仰だ。半分信じて半分疑うのは信仰ではない。だから上を仰がず左右の風を恐れて沈む。
これに対し、イエスは「すぐ手を伸ばしてペトロを捕らえ」助けてから叱られる。そして最後は弟子全員が「あなたは神の子」とイエスを礼拝する。聖書はおもしろい。
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったか」(マタイ14・31)<写真は庭の茶の花>