神さまが顔を磨かれる

shirasagikara2013-11-18

一一月四日。近くの福音ルーテル武蔵野教会のバザーにでかけました。ずらりとならぶ売店、模擬店。たいへんなにぎわいです。それに売り子になった教会のおばちゃん、おねえちゃんたちの笑顔がいい。おしなべて柔和です。内からにじみ出る喜びが表情に出るのです。イエスさまと交わり、神さまに顔を磨かれたからでしょう。
一一月九日。一〇三歳で召された女性の葬儀を、カトリック教会が運営する老人ホームの礼拝室で司式しました。その女性のお棺の顔も写真も、八〇年キリストを信じた気品に満ちていました。列席されたシスターたちも、同じく柔和な顔だちです。つね日ごろキリストさまや、マリアさまと交わり、顔をやわらかく磨かれています。
むかし国立国会図書館調査局にいたころ、ときどき国立競技場の前田理事長が部屋に見えました。わたしの隣席の上司・関口隆克先生と文部省時代局長仲間だったからです。
理事長は「国立競技場に来る人と、国会図書館に来ている人と、顔が違いますね」と言われます。言われてみれば「群れとして見ると」顔が違うのかも知れません。どちらが偉いというのでなく、体育会系の顔と、読書系の顔があるのかもとおもいました。
人には持って生まれた顔があります。それは変えられませんが、自分の生き方次第で、その顔が良くも悪くも変わるのです。
あのルーテル教会の女性や、カトリックのシスターのように、キリストを信じて生きていると、自分も気づかぬうちに「群れとして見ると」顔さえ柔和に磨かれています。
人は成長するにつれ、どんな信仰を持ったか、どんな友人と交わってきたか、どんな書物を読み重ねてきたか、どれほど仕事に熱中したかで、顔も変わるのです。子どものころ天使のような顔だったのに、犯罪を重ねて極悪非道の顔に変わる人もいます。
幼児の顔は生き生きしてかわいい。大人でも仕事に打ち込む方々の顔は個性があって美しいのです。キリストさまと交わり信仰の友と交わると、神さまが顔を研磨してくださいます。これこそ化粧品や整形手術に勝る気品ある顔への近道です。「鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔を研ぐ」(箴言二七・一七、口語訳)
<写真は庭の吉祥草>