出来すぎは人をへこませる

shirasagikara2014-01-27

絵を画くのがすごくうまい人がいると、返って絵を画く心が萎えます。わたしは子どものころ絵を画くのが好きでした。小学校に「何とかの宮さん」の妃殿下が来られたとき、わたしの絵が額に飾られました。ところが酒枝義旗先生の聖書講義で、東京美術学校日本画を出て、新制作協会に属していた井崎昭治さんと仲良しになるうち、線が違う、構図が違う、なによりも色が違う、基礎が違う、才能が違う。プロとはこういうものかと驚嘆して、絵を画く意欲がながく萎えました。
語学がすごく出来る人がいると、返って外国語をやる気が萎えます。国立国会図書館の同僚に安積鋭二さんという方がいて、数人でギリシア新約聖書を読む会をやっていました。「安積さん、外国語は何ヵ国出来るんですか」「正式に習ったのは10ヵ国くらい」「ギリシア語は」「いつのまにか覚えましたね」。オヨヨ。こういう人がいると、才能が違う。「語学は、あなたにお任せ」とやる気が失せます。
そのころ、週に2、3度、昼休みに皇居のまわりを職場の仲間と走っていました。そのあと食堂でひるめしを食べると、ごはんがむこうから口に飛び込んでくるようにうまいのです。むかいに座った同僚の高村稔君が「君はうまそうに食うね。そんなにガツガツ食われると、返ってボクなんか食欲が萎えるんだ」。なるほど。
キリスト信仰も同じでないでしょうか。あまり親が熱心すぎて、聖書だ、教会だ、お祈りだと言われたら、子どもの意欲も萎えるでしょう。三好達治に「天使も人を堕落させる」という戯曲があります。太平洋戦争中キリスト教迫害にも耐えた青年に、恋した女性がこう言います。「わたしが信仰をなくしたのは、あなたが熱心すぎたからよ」。
もちろん出来る人が悪いのではありません。しかし自分では気づかずに人をへこませ、自分の存在が、人の心を萎えさせることがあると心得ることもよいことです。偉い親の子が「うれしくて、へこむ」のと同じです。人間存在の光と影の複雑さ。
「わたしは世の光である」(ヨハネ8・12)<写真は庭の白梅一輪>