「節分」 恵みをつかむ、恵みを受ける

shirasagikara2014-02-03

二月三日は「節分」の豆まきの日です。「春夏秋冬」と、一年は「春」から始まりますが、その「立春」の前日に豆をまくのです。その「豆・マメ」は日本人が好きな語呂合わせで、「魔・マ」「滅・メ」に由来すると聞きました。
この節分の日に、成田山新勝寺などは高い寺の欄干に、年男や、横綱や、大河ドラマの俳優などを、ずらりと一〇〇人もそろえて、「福は内!」と、豆の包みを投げさせます。大群衆が両手を伸ばします。
わたしが子どものころは、お寺ではなく、いくつもの旅館や、大きな商家の二階から豆まきがありました。子ども同士情報を集めて、あそこは何時だ、ここは何時らしいと聞き込んでかけつけるのです。
豆まきの夜、子どもたちは、かならず和服で出かけました。なぜならもらいが大きいのです。豆まきが始まると、わたしたちは羽織を脱いで、からだの前で両袖に腕を通し、羽織の裾をつかんでひろげます。するとそこへどんどん豆が飛んで溜まるのです。洋服の子も上着を脱いで、前で腕を通し裾を広げますが、入る面積が小さいのです。そのころは、包み紙はなく、ほんとうに豆が飛び、ときには餅や銅貨の一銭、二銭玉がまじりました。
テレビで見る成田山は、人が多すぎてそんな余裕もなさそうですが、みな両手を挙げ、飛び上がって、飛んでくる包みを握ろうと懸命です。これでは「豆拾い」はできますまい。そうです。豆まきは、つかむものではなく、ただ受けるものです。
同じように、神さまの恵みも、気前よく、日ごと世界中にまき散らされています。しかし、それをつかみ取ってはいけません。節分の豆まきで、わたしが羽織の裾を広げて二階を仰いでいると、むこうから飛びこんで入ったように、神さまの恵みを仰いで待って受ければいいのです。
見回せば、まわりはもう恵みだらけ。よく眠れる。食事がおいしい。空や雲や花や木々が見える。家族がいて会話があって、友人がいて昔ばなしができて、本が読めて、好きなことができる。なんという恵み。羽織の裾をつかんでひろげ、ただ受ければいい。主よ感謝です。「わたしの恵みは、あなたに十分である」(第二コリント一二・九)<写真は庭の紅梅>