世阿弥と聖書

shirasagikara2014-02-10

「初心忘るべからず」とか「秘すれば花」などの名言を、六〇〇年も前に残した世阿弥は、能楽の祖であるだけでなく、世界に卓越した演劇論をその「花伝書」の中に語っています。よく知られる「我見」「離見」「離見の見」の三段階です。それを深く教えられたのは、西平直著「世阿弥の稽古哲学」(東京大学出版会 二〇〇九年刊)を読んだときです。
まず演者が、舞台の上から観客を見て、観客と一体になる「我見」があります。ついで、演者が観客のまなざしにうつる自分の姿を見ながら、自分が見ていることを観客に悟らせない「離見」があります。さらに自分の後ろ姿を感じとり、観客にそれを悟らせないでいる自分自身からも自分が離れ、風に舞うような自由な無心の舞いの「離見の見」があるというのです。 なんと深い洞察でしょう。
そのときふっと、この世阿弥流を、聖書を読む態度に置き換えるとどうなるか、考えました。「我読」「教読」「被読」の三段階かなとおもいます。
まず、聖書の好きなところを読んでいる「自分中心」の「我読」の段階です。つぎに、聖書に心を揺さぶられ、心ひくくされ、聖書に教えられる「教読」の段階が来ます。さらに、聖書から何かをもらうのでなく、自分が聖書に吸い込まれ包まれて、聖書の中に身をおき、いったい聖書はなにをわたしに語りかけているのかと、逆に聖書に自分が読まれている「被読」の段階に登るのです。
この「被読」まで来れば、もう肩の力は抜けています。ほっとしています。ゆるされてることが大わかりして笑っています。自由です。磐石の救いの陰で「聖なるのんき」でいられるのです。しかも力に満ちています。なにもできなくていい、すべてイエス・キリストが完成してくださったことを知って、大安心しながら、この方のためなんでもしようという勇気が湧きます。無力だが「無心の決意」が生まれます。それでいい。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」(ヨハネ二〇・三一)<写真は2月8日(土)雪に覆われた庭の紅梅>