「無心」に舞う 二重否定後の肯定

shirasagikara2014-02-24

ロシアのソチの冬季オリンピックで、一九歳の羽生結弦(はにゅう・ゆずる)が、フィギュア・スケートの金メダルに輝いた。その氷上の舞いは、彼の名のとおり「羽」が「生」えたような軽やかさ。
ちょうど著者から贈られた「無心のダイナミズムーしなやかさの系譜」(西平直著・岩波現代全書、二〇一四年一月刊)を読んだばかりなので、その無心の舞いを興味深く見つめた。
西平直・京都大学教授は、「無心」を、禅学者の鈴木大拙井筒俊彦能楽世阿弥、禅僧・沢庵和尚、心学の石田梅岩らの著作を手がかりに解いてゆく。そして「無心」は、否定と肯定と反転と対立と緊張をくり返し、ダイナミズムにあふれたものだという。
本書を読んでわかってきた「無心」とは、「はからい」がない。「自分が消えた」とき「むこうから来る」もの。「軟らかい」「すこぶるのん気」。
たとえばバイオリンや、ハープを演奏したとき、「無心」になると楽器を忘れて音楽と一体になる。いや楽器自身が曲を奏でている。世阿弥も「無心」は稽古なしには成りえないが、稽古が消えたとき、さらに稽古を忘れていることさえ消えたとき成り立つという。自分を否定して、もう一度否定した肯定だ。
これはキリスト信仰でも言えることだ。A=A(AはAである)。A= non A(AはAでない)。A= not non A(AはAでないものではない)。
エスはキリストである(肯定)。イエスはキリストではない(否定)。イエスはキリストでないものではない(二重否定後の肯定)。わたしはイエスをキリストと信じる。わたしはイエスをキリストとは信じない。わたしはイエス以外の何者をもキリスト・救い主とは信じない。
この二重否定後に残る肯定はしなやかだ。自分の力は抜き切っているのに、上から力が覆っていて無心に近いが、キリスト信仰と禅の「無心」を較べたとき、同じ無心でも「あふれる喜び」があるか、ないかだと感じた。「その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた」(ルカ9・36)<写真は庭のフキのトウ>