自分を消した朝鮮伝道者・乗松雅休

shirasagikara2014-03-03

先週のブログで、無心を取り上げましたが、そのような「二重否定後の肯定」で、自分を否定してキリストを指さしつづけた伝道者がいました。その名は乗松雅休。彼こそ無私に生きたたぐい稀な人物です。しかも存命中から無名の中に沈んでいます。しかも、この「無名のまま名が消えたこと」こそ、乗松の無上の喜びでした。
乗松は明治二九(一八九六)年、伝道のためひとり朝鮮に渡ります。その働きは、水原高等農林(現ソウル大学農学部)教授だった佐藤得二が、「乗松さんは、朝鮮へ伝道に行ったのではない。朝鮮人を愛しに行ったのだ」とのことばどおり、乗松さんは日本が朝鮮を力で植民地化するなか、苦しむ朝鮮の民衆に福音で仕えたのです。
日本の敗戦で、神社を始め日本関係の記念碑が根こそぎ倒されたなか、唯一朝鮮半島に残る「乗松雅休兄姉記念碑」に、伝道者・金太煕はこう刻みました。
「生きるも主のため、死ぬるも主のため、始め人のため、終わりも人のため」「一切の所有を捨てて夫婦同心福音を朝鮮に伝う」「心肺疼痛皮骨凍飢手足病敗しその朝鮮における犠牲きわまりぬ」「しかるに動静ただ主に頼り、苦に甘んずるの楽しみを改めず、その生涯は祈祷と感謝なり」
詩人・李烈はこう詠います。
「韓服を着、韓国語を語り、わらぶきの家に住み、わがくにを、自分の国より、自分の子どもよりも、もっと愛しました」「大日本帝国の一等国民が、不逞朝鮮人こじきのように飢えながらも、神さまのことばを宣べ伝えました」
自分を消そう、否定しようとして無名に沈んでいた乗松さんを、キリストはその歿後五〇年をへて世界の中に引き上げられました。それが、飯沼二郎・韓晢曦の「日本帝国主義下の朝鮮伝道」(日本基督教団出版局、一九八五年)であり、ニューヨーク・ユニオン神学校の「乗松雅休奨学金」(一九八九年)の大肯定となりました。乗松雅休は、あとになってふり返ると「日本人最初の海外伝道者」になっていました。主がなさることは面白い。「いまや残るのは信仰と希望と愛だ。この三つの中で最大のものは愛だ」(第一コリント一三・一三)<写真は庭の福寿草