パンとブドウ酒は「十字架記憶装置」

shirasagikara2014-03-17

「わたしを忘れないで」は、だれしものおもいです。小学生でも卒業文集に「先生ボクを忘れないで」と書きます。しかし有名人でも死後30年もたてば、急速に忘れられてゆくのです。
じつはイエスさまも「わたしを忘れないで」と弟子たちに念をおされます。そこで忘れやすい弟子たちに、忘れない「記憶装置」をつくられました。それがパンとブドウ酒です。
エスさまが「最後の晩餐」をひらかれたその卓上には、ユダヤ教の過越祭につかう、ブドウ酒、水、種なしパン、苦菜がありました。そのうちの「パンとブドウ酒」を「十字架記憶装置」にされた発想がすごいとおもいます。毎日使うものだからです。
エスさまは、弟子全員に、ひとつのパンと、ひとつのコップのブドウ酒を、順々にまわし「目で見」「手で触れ」「舌で味わわせる」という、あたまでなく、からだに刻みこむ「記憶装置」を定められたのです。弟子たちに「これはわたしのからだ」「これはわたしの血」と言っても、そのときはよくわからなかったでしょう。そうです、イエスさまの教育は「あとになって効いてくる教育」です。十字架のあと「ああ、そうか」と大わかりする教えでした。
「パンとブドウ酒」は、日本でいえば「ごはんと味噌汁」「パンとコーヒー」。毎日飲み食いするもの。毎日「思い出して」ということです。カトリックのように神聖視することはないのです。他方、「記憶装置」を否定した無教会が「パンとコーヒー」のように、イエスさまの十字架を毎日思い出しているか。いかがでござろう。
毎日「思い出せ」といわれてもすぐ忘れます。そこで「記憶装置」が威力を発揮するのです。イエスさまは「わたしの愛を思い出して」と切望されます。この「記憶装置」が2000年機能し、全世界の教会でつづいているのです。「ミサ」として毎日カトリックで。「聖餐」として毎週、毎月、プロテスタントで。
「わたしの記念として(アナムネーシス・思い出して)このように行いなさい」(第1コリント11・24)<写真は庭のクリスマスローズ