大正生まれの不思議な共通体験

shirasagikara2014-03-24

近代日本は、明治(45年)、大正(15年)、昭和(64年)、平成(26年〜)と、4代の天皇で150年近くを区切っているが、うち大正天皇は病弱で大正時代は15年で終わった。 わたしは大正14年(1925)生まれの89歳。大正生まれはほとんど死にたえた。それに先の戦争での戦死者・233万人は、ほとんど大正生まれの若者だった。
大正元年(1912)生まれが兵役適齢期になった昭和6年(1931)に満州事変が起こり、それから「15年戦争」がつづき、昭和20年(1945)に日本が太平洋戦争で敗北したとき、大正15年(1926)生まれがちょうど兵役適齢期だった。
つまり大正生まれの「15年間の兵役適齢期」が、すっぽり「15年戦争」と重なったのだ。なかでも大正6年から11年生まれが一番戦死者が多い。国立国会図書館の書庫で、わたしが調べたどの学校の卒業名簿にもこの年代は戦死者名が重なる。明治・大正の年号は、天皇の死という偶然の区切りだが、不思議な共通体験をした。
共通体験といえば「国定教科書」がそうだ。明治晩年生まれは、明治43年(1910)制定の「ハタ、タコ、コマ」の教科書で学んだ。大正生まれが小学校へ入る大正7年(1918)から「ハナ、ハト、マメ、マス」の教科書に変わる。昭和生まれが小学校入学の昭和8年(1933)に「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」になった。これも偶然の一致。
大正生まれの共通体験といえば、戦時中の「軍隊」と戦後の「労働組合運動」に組み込まれたことだ。大正生まれには時代の影響でマルクス主義への親近感が強く、敗戦後は軍隊への反発から労働運動になじみやすかった。この大正生まれが敗戦後の日本の復興、高度成長の中核を担った。軍隊と組合という大きな組織にもまれ、組織をつくり組織を動かすことになれていたのだ。
その大正15年(1926)生まれが、ことし、つぎつぎ米寿を迎える。「大正時代がめでたい米寿」なのだ。挽歌(ばんか)を歌い、米寿を寿ぎ、みずからを慰める。「大正や月もおぼろの花霞」。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16・33)<写真は、独立学園からいただいた「奥丁子桜」。東日本大震災のとき、傾いた左の燈籠を奥丁子桜が支えた>