薄い信仰の「花と嵐と水とパン」

shirasagikara2014-04-14

「マタイ福音書」で、イエスさまが「弟子の信仰が薄い」と嘆かれたのは、「花と嵐と水とパン」の場面です。
「花」は、野の花でも神さまはこんなに美しく装ってくださる。まして君たちにはと言ったあと「信仰の薄い者たち」とつづきます(6・30)。「嵐」は、ガリラヤ湖で舟が沈みそうになり、不安な弟子が寝ていられたイエスさまを起こしたとき、「なぜ怖がるのだ、信仰の薄いものたち」と叫ばれます(8・26)。「水」は、湖上歩行のイエスに、ペトロが「主よ、あなたでしたらわたしをそちらへ」と、半信半疑で歩き出して水に沈みかけたとき、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱られます(14・13)。「パン」は、イエスが「ファリサイ・サドカイ派形式主義のパン種に注意」と言われたのを、パンの用意を忘れたと弟子が取り違えしたとき「信仰の薄い者たちよ」と嘆かれます(16・8)。
この「薄い信仰」の「オリゴピストス」の「オリゴス」は、「小さい、少ない、少量」の意味で、「小さい信仰」のことです。そして信仰が小さいとき心配が大きくなるのです。「何を着ようか、どうしよう」「嵐がすごい、どうしよう」「沈みそうだ、どうしよう」「パンを忘れた、どうしよう」と不安が大きくなるのです。
そして4回もイエスさまを嘆かせた弟子たちは、教えられても、叱られても、その薄い小さい信仰態度が改まりません。これは現在のわたしたちも、この「薄い信仰」から抜けきれないことの象徴です。全幅の信頼を主に投げ切るとき、大安心が与えられることは「わかっちゃいるけど出来かねる」からです。
このすぐ動揺し不安になるわたしたちを、百も承知のうえで「キリストは、不信心な者のために死んでくださった」のです(ローマ5・6)。「わたしは心配製造株式会社の社長です」と言っていた心配症のクリスチャンでも、イエスさまはちゃんと救ってくださいます。こちらがしっかりするのでなく、イエスさまがでんといられるから安心なのです。
「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ローマ4・5) <写真は庭のモチの木の花>