「受難 追体験」フィリピン信徒9人が十字架に

shirasagikara2014-05-26

カトリック教徒の多いフィリピンで、プロテスタントの伝道を、もう三〇数年もつづけているマニラの「日比聖書教会」の横川知親(ともちか)牧師から、今月も「フィリピン通信・六月号」が届きました。その中の日本語新聞の記事にびっくりしました。
二〇一四年春の復活祭の四月一八日の金曜日、九人のフィリピン人カトリック信徒が、三カ所の会場で、手足に釘をうたれて十字架につけられたというのです。
それは「マレルド」とよばれるカトリック教会の儀式です。古代ローマ軍にふんした兵士に守られ、受難志願の男たちがよろめき歩きます。そこには母マリアのほか、聖書では逃げたはずの使徒たちも従い、ゴルゴダの丘に見立てられた場所まで来ると、周りはたいへんな観衆。欧米、中東、日本からも観光客が来たそうです。
メディア陣がカメラで待ちかまえるなか、地面の十字架に寝かされた志願者の手足に、三センチの釘が打ち込まれ、「うっ!」といううめきのあと、十字架は高く押し立てられたそうです。しかし、これまでこれで死んだ者は一人もいません。
いかにもカトリック教会らしい行事です。キリストの十字架の苦しみを、受難志願者自身が殉教者気取りで味わい、また観衆も、それを目で見て、キリストの苦難を追体験させる行事ですが、聖書の記録とは逆です。
キリストの十字架の苦しみの意味は、肉体の苦痛ではありません。聖書はイエスが、釘打たれてうめいたとか、血が飛び散ったとかは一行も書かないのです。ただ「彼らはイエスを十字架につけた」と書くだけです。
十字架の真の意味は、無罪のイエスさまが、父なる神にさえ捨てられ、罪そのものとなって死なれ、罪ある人間が、罪あるままに、完全無罪にされる死であったことにあります。肉体の苦痛を強調するのは「偶像教の思想」です。十字架の死の意味を取り違えてはなりません。主の十字架を視覚に訴え安物扱いしてはなりますまい。「神はわたしたち有罪の者のために、無罪の方を有罪とされました。それはわたしたち有罪の者が、その方によって無罪判決をうけるためなのです」(第二コリント五・二一)、私訳)<写真は萱吊り草の花>