「学士様なら娘をやろか」 藤井武と妻の喬子

shirasagikara2014-06-09

藤井武という伝道者(一八八八〜一九三〇)は、真心から妻・喬子を愛していました。喬子の父・西永公平は弁護士で、第二〇代石川県会議長(一九一八〜一九・大正七〜八年)を務めた名士です。藤井武も金沢の県立一中から東京の第一高等学校をへて、東京帝国大学法学部を第二席で卒業し内務官僚となった秀才。卒業直後の一九一一(明治四四)年に喬子と結婚します。
しかし彼は学生時代、内村鑑三から深い影響を受け、わずか四年間、京都府山形県で勤務したあと官を辞し、一九一五(大正四)年、独立伝道者となり内村の助手となります。じつはその二年前、喬子は腸チブスで一カ月間、四〇度の高熱のあと癒され、夫妻は生涯をキリストに捧げる決心をしていたのです。   
ただ生活は一変します。金沢出身の文士・奥野他見男が「あの容色秀麗ならびなき令嬢」が、貧しい質素な喬子に変わったのを見て驚き、「学士様(帝国大学卒業生)なら娘をやろか」(一九一七(大正六)年、東文堂)という本を出します。巻末に喬子を評したこの「書名が」当時の「流行語に」さえなりました。
その喬子が、二九歳で四人の子女を遺し、一九二二(大正一一)年一〇月一日天に召されます。その告別式の司式は内村鑑三です。内村は式の最後にこう叫びます。
「神さま! 藤井武にとり、妻・喬子は、なくてならぬ存在でありました。なぜあなたは、藤井から妻・喬子を取り去りたもうたのでありますか! わたしは、あなたを撃ちたくあります!」と、内村はこぶしを振り上げ神さまになぐりかかろうとしたそうです。
そのとき、最前列にいた藤井武は「アーメン。ほんとうにそうだ」とおもいました。だが内村は言葉をつづけます。「しかし神さまには、神さまのお考えがあります。キリスト信仰は、どこまでも神さまを義とし奉るべきであります」
後年、藤井武は、世田谷の桜新町の自宅の「新町学廬」に集まる、義弟の矢内原忠雄や、弟子の酒枝義旗たちに「喬子を失った悲しみを、天秤のこちらの皿に載せ、それにより教えられた恵みをそちらに載せると、最初は悲しみが重かったが、いまは恵みが重くなった」と語ったといいます。「あなたはわたしをもたげて投げすてられました。(詩篇一〇二・一〇、口語訳)<写真は白いストケシアも咲いた>