織田楢次牧師の朝鮮伝道

shirasagikara2014-06-16

むかし織田楢次という朝鮮伝道者(一九〇八〜一九八〇年)にお話をお聞きしました。「チゲックン(韓国の背負道具での運搬人夫)」という伝記も書かれました。心に残ったことが二つ。
一つは、昭和の初め神学校を出て、当時日本の植民地だった朝鮮へ伝道に渡ったとき、朝鮮のクリスチャンから「渡瀬常吉牧師のような伝道はしないでください。乗松さんのような伝道をしてください」といわれたそうです。渡瀬常吉は組合教会の牧師で、朝鮮総督府からお金をもらって、朝鮮にいる日本人に伝道し、朝鮮人にきらわれていました。
「乗松さんとはだれか」と調べたところ、乗松雅休は四国の松山藩士族なのに、明治から大正にかけて、朝鮮の水原で朝鮮家屋に住み、朝鮮の衣服をまとい、朝鮮の食事を食べ、子どもにも小さいときは日本語を教えず、「どこで日本語を学んだか」と聞かれるほど朝鮮語に熟達し、朝鮮人より朝鮮人を愛した伝道者とわかりました。
二つ目は、織田楢次先生は乗松さんに感銘をうけ、ご自身も朝鮮語に熟達して、朝鮮人の友として伝道されたことです。
一九一〇(明治四三)年から朝鮮を支配した日本は、朝鮮中に日本式の神社を建てました。その神社に、一九三七(昭和一二)年から朝鮮人に強制参拝させ始めたのです。これに抵抗した長老教会を中心とするプロテスタントを弾圧し、二〇〇の教会を閉鎖、二〇〇〇人の牧師・信徒を投獄し、うち五〇名が獄死しました。
織田先生も神社参拝を拒否して逮捕されます。しかし朝鮮語がうますぎて日本人とはおもわれず、そこで謡曲をうなると、そこまで出来るのは日本人だと認められたそうです。
その警察署の留置場で、織田先生の向かいの部屋にいた朝鮮人クリスチャンが、取調べのため朝出てゆくさい、織田先生に「やあ!」と挨拶をしたのに、夕方、バタン、バタンと両手で廊下をたたき、いざりながら、息も絶えだえに帰ってきたそうです。同じクリスチャンでも朝鮮人には過酷な拷問をしていたのです。
織田楢次先生は日本の敗戦後、在日大韓基督教会の牧師もされました。田永福(チョン・ヨンポク)の名で。乗松雅休、織田楢次、こういう日本人もいたのです。「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったとおもうか」(ルカ一〇・三七)<写真はクローバの花>