人生で、イエスさまと出会う

shirasagikara2014-06-30

新約聖書の「ヨハネ福音書」4章に、シカルという町で、サマリア人の女性がイエスさまと出会う話があります。
女性は人生に疲れていました。イエスさまは旅に疲れていました。ユダヤから足早やに逃げてきたからです。なにから逃げられたのでしょう。ユダヤでご自分の評判が高くなったからです。人は自分の評判の高いところに留まりたがります。イエスさまは逆です。急いで逃げるために、ふだんは通らないが、故郷ガリラヤへ直線近道のサマリアを「通らねばならなかった」のです。
女性は5人の男性と結婚、離婚をくり返し、幾人かの父親の違う子どもを抱え、いま6人目の男性と同棲して、自堕落な女と後ろ指をさされ、人生に疲れはてていました。女性がだれもいないはずの、ま昼どきの井戸へ水を汲みに来ると、見知らぬ男性が座ってるのに驚きます。ひと目でサマリア人でなく、ユダヤ人とわかりました。むかしは民族で服装が違いました。日本人は和服、韓国人は韓服のように。それがイエスさまでした。
それは彼女にとって人生最大の、絵のような「出会い」でした。ここでイエスさまと女性は数回問答を交わすだけで、なんと「水問答」から「礼拝」にまで高められました。始め女性は「メシアが来るのを『知っている』」と、頭の信仰だったのに、「わたしがそれだ」と言われ、ついにメシアと「出合った」のです。 人生は「だれと出会ったか」で大きく決まります。電車や道で人と出会うのは「出会い」ではありません。師と弟子、夫と妻、友と友、イエスとわたし。魂と魂がスパークして火花が散って、人生がぐう〜と変わるのを「出会い」といいます。すごい先生や友人と出会えた人は幸せですが、そういう出会いがなくとも、イエスさまとはだれしも出会えるのです。
彼女は、人生に疲れはてていましたのに、イエスさまといっしょにいると、心が安らぎ、温められ、高められ、気高いものを感じて「この人はメシアかも知れない」と、恥をも忘れて町の人々に宣伝します。「伝道」とは、イエスさまと出会い、そのイエスさまのすばらしさ、イエスご自身のお値打ちを語ることです。聖書はおもしろい。
「彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、あなたが話してくれたからではない。自分で聞いて、この方が救い主であるとわかったからだ』」(ヨハネ4・42) <写真はアローノ・カーノ画く「イエスサマリアの女」>