目をあけて祈る習慣を

shirasagikara2014-07-07

ユダヤ教では「目をあけて祈る」のが習慣だったのに、どうしてキリスト教では「目を閉じて祈る」のでしょう。たぶんイエスさまが「祈るときは、奥まった自分の部屋で、戸を閉じ、隠れたところにいられる神に祈れ」と教えられたからではないでしょうか(マタイ6章)。
これは偽善者が「会堂や大通りの四つ角に立って祈る」のを批判されたからです。「みなさん、いまは祈りの時間ですよ。午後三時の祈りのときですよ」と、ひとり神に祈るのでなく、両手を空に挙げ、道ゆく人々に祈りをうながし、自身の信仰熱心を見せる祈りだったからです。
しかしイエスご自身は「天を仰いで(目をあけて)『父よ時が来ました』」と祈り始められます(ヨハネ18章)。また「主の祈り」の「天にいられるわれらの父よ」は、天を仰ぎ見ての、目をあけた祈りです。
だから、人に見せるためではなければ、目をあけて祈るのも、けっして悪くはありません。すばらしい詩は、目をあけて祈ったとき生まれています。
河野進牧師の詩。「浅い流れは音が高い わたしの祈りよ ことばよ 行いよ 音が高くないか 深い流れは 音を立てない」。これは川をみつめての祈り。 浜谷不二さんの詩。「主よ 今日の夕焼けはとても美しいです 空 全体がバラ色に染まり 西の空に 茜色 朱色 金色に輝く雲はあなたのみ手からこぼれる 一瞬の輝きを見るようでした」。これはしっかり西空を見つめた、主との会話、祈りです。
賛美歌の「父の神よ、夜は去りて、新たなる朝となりぬ」(24番)や、「朝風静かに吹きて、小鳥もめさむるとき」(30番)や、アッシジフランチェスカの「小川の流れは ほめごとささやく」(75番)も夜明けや自然をみつめた祈りです。
この「目をあけて祈る習慣」をつけてはいかがか。あの浜谷不二さんのように。何でもかんでも、主イエスさまとの会話を楽しめばいいのです。イエスさまとじっこんになれること請け合い。
「イエスはパンを取り、賛美の祈りを(目をあけて)唱えて、それを裂き」(マルコ14・22) <写真は、のうぜんかつら>