白洋舎新本社落成式のことば

shirasagikara2014-07-21

きょねん、ここで起工式がありました。そのとき見えていた地面はいま見えません。聖書も埋めましたが見えません。その地面に鉄の杭がうちこまれ、コンクリートが流しこまれて土台が出来、この本社が完成しました。いま見えなくなった土台が、この建物を支えているのです。
その起工式で、わたしは、建物は完成したてはりっぱだが、風雪をへると、惨めたらしくなるものがある一方、風格のある建物も出ると申しました。世界遺産法隆寺や姫路城がそれです。その風格の条件は四つです。第一は「設計思想」、第二は「最高の材料」、第三は「技術者集団の存在」、第四は「手抜きがない仕事」です。
これは白洋舎にも当てはまるのでないかと申しました。なぜなら第一に「設計思想」が雄大で、81年も前に、この下丸子に数千坪の土地を求め、東洋一の大工場を建設しています。第二の「最高の材料」は、ドライクリーニング技術の独自開発に始まる全国規模の設備投資です。第三の「技術者集団」は、最新機器を駆使できる永年勤続の技能者集団がいることです。第四の「手抜きのない仕事」は、白洋舎のお家芸だからです。
しかし、白洋舎は順風満帆でここまで来たわけではありません。白洋舎108年の歴史には、もうだめかという事件がしばしばありました。創業わずか5年の大正元年に、明治天皇の皇后の昭憲皇太后からお預かりした白鳥の襟巻きを溶かした「ボア事件」が起こり、大正初期には「白洋舎てんぷく事件」があり、大正12年関東大震災での「東京工場焼失」は大損害を受けます。昭和20年の米軍の空襲で「工場焼失」と「顧客消失」という危機をむかえますが、どうして乗り切れたのでしょう。
白洋舎の構造が二重構造だったからです。一つは「人間がつくる土台」。もう一つ下に「神さまがつくられた土台」があったからです。白洋舎の創業者・五十嵐健治初代の社長が、大正9年に白洋舎を株式会社にされたさい、「どこまでも、キリスト信仰を土台にすること」を経営方針の第一とされたからです。そして、関東大震災の危機は名古屋、大阪支店の援助で乗り切り、日本敗戦後の危機は占領軍のクリーニングで乗り切りました。見えないキリストが、土台となって助けられたのです。(7月16日の落成感謝式で)
「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」(詩編50・15)