「氷点」50年 五十嵐健治と藤尾英二郎

shirasagikara2014-07-28

50年前の1964(昭和39)年7月中旬、北海道旭川三浦綾子さんから、東京のわたしの父・藤尾英二郎に電話があった。「先生、朝日新聞の懸賞小説に当選しました」。同じ電話を、綾子さんは神奈川県茅ヶ崎の五十嵐健治・白洋舎相談役にもかけていた。
7月21日、朝日新聞東京本社講堂での晴れの授賞式。三浦綾子さんは、壇上から会場にいた五十嵐健治や藤尾英二郎を見つけ、うれしかったという(二人とも全禿頭ですぐわかった)。
だから綾子さんは、1千万円(いまの1億円)懸賞小説「氷点」の中で、二人の痕跡を残している。主人公陽子の祖父・津川教授は晩年茅ヶ崎に住むが、この「茅ヶ崎のおじいさん」が五十嵐健治。また津川の娘・夏枝の女学校の親友で、日本舞踊の師匠「藤尾辰子」は、父の「藤尾」の借用だ。
五十嵐健治も、当時自宅療養中の堀田(のち三浦)綾子も、仙台刑務所のクリスチャン死刑囚と文通していた。健治が「札幌に出張する」と死刑囚に知らせると「ぜひ旭川の堀田綾子をたずねて」と頼んだ。無名の病人・綾子を北海道までたずねる者はいなかった。
札幌から健治は綾子に手紙を出した。綾子は「昨日、飛行機で着きました」(当時、飛行機は高価)という、札幌グランド・ホテルの便箋をみて、「何とぜいたくな牧師」と誤解して来訪を謝絶した。しかし後、綾子も健治の謙遜に負け面会した。健治は綾子の枕元で「むかし北海道の原始林のタコ部屋で苦労し主に導かれた」と慈父のように語った。だれが想像できたか。日本の北の果ての寝た切り病人が、のち日本を代表する女流作家になって、自分を見舞った健治の波乱万丈の生涯を「夕あり朝あり」の伝記に書こうとは。
そのあと毎年、わたしの父が東北・北海道伝道を始め、健治は父に綾子訪問をゆだねた。健康を回復した三浦綾子宅での家庭集会が盛んになり、綾子は自分が属する旭川六条教会での父の講演を牧師にたのんだ。牧師は「藤尾英二郎は何者か」と断った。綾子は「それなら、わたしが教会を借りる」と父に講演させた。話を聴いた牧師は「来年から教会でお招きする」と言ったという。わたしも父とともに六条教会の日曜説教に立ったことがある。
「数知れぬ不思議なわざを成しとげられる神」(ヨブ5・9) <写真は朝顔