キリスト信仰と「仏壇」

shirasagikara2014-08-18

お盆です。お盆といえば主人の実家へ帰り、お墓と仏壇が待っています。クリスチャンの女性が、キリストを知らない男性と結婚したさい、この「仏壇」が問題になります。、主人の実家の行事に参加しなくてはならないからです。そのとき「わたしはクリスチャンですから、行事に出ません」というのが正しいでしょうか。
むかし、神戸女学院というキリスト教主義の大学の、学生寮舎監のお部屋にうかがったことがあります。驚いたことに舎監室に仏壇がありました。その仏壇には仏像はなく、十字架と父上の位牌があるだけでした。舎監がいわれるには、「ここの学生が在学中キリストを信じ、卒業後、檀家総代のようなご大家に嫁ぐと、神棚や仏壇とどう付き合えばよいかと相談に来るのです」。そのときわたしは、「この仏壇を見なさい」と申します。「あなたは仏壇の前に座っても、仏さまを拝むのではない、キリストさまに、この家のご先祖がたの救いを祈るのです」。「ひとが見ると、仏壇を拝んでいるように見えても、あなたはキリストさまを拝むのです」。
そうです。嫁いだ先のお家の信仰に敬意を払い、仏壇のろうそくや線香に火をつけ、神棚にご飯を供えればいいのです。「それは偶像崇拝だ」というのは、キリスト信仰がゆきわたり、偶像がねじふせられた欧米宣教師の言い分です。明治時代、そんな宣教師に指導されて、地方の農村でクリスチャンになった青年が、仏壇を橋から川に投げました。結果は「ヤソ(イエス)嫌い」がふえただけです。宣教師の自己満足でした。
旧約聖書「列王記下5章」に、ナアマン大将の話があります。アラムの国からイスラエルに来て、預言者エリシャに重い皮膚病を治してもらったとき、ナアマンがエリシャにたずねます。「わたしがアラムに帰ると、アラムの王さまが偶像のリンモン神殿に参拝にゆくとき、わたしは付き添わねばなりません。王さまがひれ伏して拝むと、わたしもひれ伏さねばなりません。ひとが見れば、ナアマンが偶像を拝んでいるように見えます。これでいいのでしょうか」。預言者エリシャが答えます。「安心して行きなさい」。聖書は深い。
「世の中に偶像の神などなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」(第1コリント8・4) <写真はギボウシの花>