あたまの信仰、からだの信仰

shirasagikara2014-09-01

ひとくちに「キリスト信仰」といっても、「あたまの信仰」と「からだの信仰」があります。だれしも最初は、キリストが救い主であること、キリストの十字架の死により罪ゆるされ、その復活で永遠の命が与えられることを心で信じ、あたまで納得し、口で信仰告白をしてクリスチャンになります。まだ「あたまの信仰」の段階です。それが「からだの信仰」にすすめば、千変万化の事情の中もくぐり抜ける力が養われます。
自動車教習所でくるまの運転を習います。前進、後退から始まり、最後は路上運転もこなし、交通法規や車両構造の試験にも合格すると運転免許証がもらえます。ところが、一般道路でくるまの運転を始めるとたちまち上達します。なぜでしょう。交通状況が千変万化で、バスもトラックもバイクも自転車も人も通ります。教習所ではあたまで「ええと」と考えながらの運転だったのが、からだで運転を覚え、考える前にハンドルが動くようになるるからです。
キリスト信仰も、からだの信仰に進むには、日々の生活の中で「主の言葉はほんとうだ」と、生活のあのこと、このことを、キリスト信仰と結びつけて納得する「くせ」をつければいいのです。信仰の実験を重ねるたびに、信仰がからだにストンとはいるのです。
ヨハネ福音書」4章で、ガリラヤのカナにイエスがおられると知り、王の役人がガリラヤ湖畔から来て、死にかかっているわが子を癒してほしいと頼みます。イエスは「帰れ、あなたの息子は生きる」と言われると、彼はその言葉を「信じて」帰ったとあります。帰る途中、息子が元気になった知らせを受け、それが「帰れ」とイエスが言われた時間と一致したので、「彼もその家族もこぞって『信じた』」とあります。彼は2回信じています。最初は頭で、つぎはからだで信じました。2回目は生活の中の実験で、「主の言葉はほんとうだ」と、からだにストンとはいったのです。
ただ「あたまの信仰」であろうと「からだの信仰」であろうと、主の救いは磐石(ばんじゃく)です。
「主よ、わたしたちはだれのところへゆきましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っていられます」(ヨハネ6・68) <写真は朝顔