信仰の平熱 平凡な信仰

shirasagikara2014-09-08

八九歳の老人。ことしで洗礼を受けて七〇年になります。いろんなタイプのクリスチャンと出会いました。驚くほどの「強い信仰」「広い信仰」「深い信仰」「熱烈な信仰」「静かな信仰」の方々です。
しかしいま、ふり返ってみると、大事なのは「平凡な信仰」だとおもうのです。「平凡な信仰」とは、一日のほとんどを、神さま、イエスさまを忘れている生活です。同時に、「平凡な信仰」とは、一日のほとんどを、気づかずに、神さま、イエスさまに守られている生活です。
わたしたちが神さまを忘れて、仕事や家事や育児に追われていても、神さまのほうが忘れたまわない。わたしたちが信仰熱心だからではありません。ただ、神さまがわたしたちをつかんで離されないだけです。それを信じて喜んでいる、それが「平凡な信仰」です。
「熱烈な信仰」は偉いとおもうでしょう。しかし人間のからだでも、高熱つづきが危険なように、信仰の高熱つづきもいけません。「信仰の平熱」がいいのです。ふだん「平熱の信仰」だから、いざというとき「熱烈な信仰」の熱にも耐えられるのです。
「強い信仰」は偉いとおもうでしょう。一九四二(昭和一七)年三月、逮捕された特別高等警察官(特高)にたいし「天皇よりキリストが上です」と言ったため、三年半も堺の刑務所に投獄された山中為三さん。「強い信仰」に見えますが、じつに柔和なやさしいかたでした。「藤尾さん、監獄の前の部屋に共産党員がいましてね。仲良くなりましたよ」と笑われたかたです。「平凡な信仰」だからこそ、いざというとき「強い信仰」になり、死ぬかとおもうほどの迫害に耐えられたのです。
平凡なクリスチャンの立ち位置は「平凡な信仰」です。「平凡な信仰」とは、こちらが神さまを忘れても、神さまは忘れたまわないという大安心の信仰です。「強い信仰」「広い信仰」「深い信仰」「熱烈な信仰」など、なかなかなれません。りっぱなクリスチャンをめざすのをやめましょう。高熱がからだに悪いように、「信仰の平熱」を保ち「平凡な信仰」でいきましょうや。「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」(第一テサロニケ四・一一)
<写真はノウゼンカズラの落花>