罪とゆるし

shirasagikara2014-10-06

「罪とゆるし」。これは聖書の最大のテーマ。そのハイライトがキリストの十字架です。旧約聖書にも「ヨセフとその兄弟」に、罪とゆるしの実例を見ます。ヨセフは兄たちが自分をエジプトの奴隷商人に「売ったこと」を「神さまの派遣」ととらえてゆるしています(創世記45・8)。
むかし不思議なことがありました。あるとき、わたしが不在の会合で、わたしは手ひどい弾劾をある有力な信徒からうけました。その席にいたわたしの息子に「どこがいけないんだ」と聞くと「全部だよ」との答え。わたしの全部が否定されたなら、去るしかないと決めました。ひどい打撃をうけ「ゆるしあいなさい」(コロサイ4・32)といわれて、心で「ゆるすんだ」とおもいながら「ゆるし切れない自分」が残ります。
彼はかれなりに、神に忠実のつもりでしょうが、立場は狭い教会原理主義でした。ことごごとく反論できましたが、「自分で復讐はせず、神の怒りにまかせなさい。復讐はわたしのすること」という「ローマ人への手紙12章」に支えられ、そこを去りました。驚いたことに、わたしを陰で非難したかたは、まもなく目が見えなくなったそうです。わたしは神のことばに畏れをおぼえました。
罪の加害と被害を考えると、被害者は「悪かった」と謝罪されればゆるします。しかし口先だけの「ごめん」では、「ゆるし切れない自分」がここでも残るのです。もし「ごめん」もなければなおのこと。日本と中国・韓国との関係も同じです。奇妙な逆転。加害者はすっきりし、被害者がなお苦しみます。また加害者も、謝って「ゆるす」と聞けばほっとしますが、相手に「ゆるされ切られていない不安」が残るのです。
「ヨセフの兄たち」は、父ヤコブが死んだとき、「ゆるされていながら、ゆるされ切られていない不安」にかられ、ヨセフの復讐におびえます。ヨセフは「あなたがたは、わたしに悪をたくらんだが、神はそれを善にかえられた」とさとします(創世記50・20)。「ゆるし切れない罪」「ゆるされ切られていない不安」、人間の「原罪」。だから十字架が輝くのです。
「わたしたちの罪をゆるしてください、わたしたちも罪を犯した人をゆるしましたから」(マタイ6・12、塚本虎二訳) <写真は茶の花。「群がりて天を仰ぐや茶花の弁」(正人)>