水平の祈りと垂直の祈り

shirasagikara2014-11-03

ある無教会の集会に出たときのことです。司会者が「〇〇先生、閉会のお祈りを」と頼まれると、やおら立ち上がられた先生は、「神さま、わたしと内村鑑三先生との関係は大正〇〇年に始まり」と、ながながと内村の話をされたのに驚きました。お祈りというので、目を閉じて聞きましたが、これは祈りではなく演説でした。形だけ「神さま」と最初に入れただけです。こういうのを「水平の祈り」といいます。右や左の人間に聞かせる祈りだからです。
聖書にも「水平の祈り」があります。「ルカ福音書」一八章にしるされたファリサイ派の祈りです。
「神さま、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」(一一節)。
彼は、「神さま」と口にしますが、その目は左右の「水平」に走ります。「ほかの人」「この徴税人」と、心は横を見ているのです。横を見るだけではなく、他人を審いて威張っているのです。あの老先生が「内村と自分の深い関係」を誇った「水平の祈り」と同じです。
これに対し、徴税人は「垂直の祈り」をします。
「神さま、罪人のわたしをあわれんでください」(一三節)
このとき、ファリサイ派は「立って祈った」とあります。彼は堂々と胸を張り、目を見開き、両手を天に挙げ、大声で祈りましたが、悲しいかな、左右を見る「水平の祈り」でした。
徴税人は「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈ります。ファリサイ派は「胸を張りました」が、徴税人は「胸をへこませました」。胸をへこませて、だめな罪人の自分を神さまのあわれみにつなぎます。左右を見て威張れない自分でした。ただ上を仰ぐしかありません。だから「垂直の祈り」になったのです。「義とされて(ゆるされて)家に帰ったのは、この人であって、あの人ではない」(ルカ一八・一四)<写真は吉祥草>