「よそ行きの顔」と「ふだんの顔」

shirasagikara2014-11-10

むかし、なにか家でめでたいことがあり、写真屋さんを呼んで集合写真を撮るとき、「よそ(他所)行きの顔をして」と言われたものです。ふだんのふざけた顔でなく、人さまに見られて恥ずかしくない、まじめな顔になれという注意でした。家で写真を撮るのは年に一回あるかなし。あとは学校での入学、進級、卒業くらいです。それほど「写真」は貴重でした。
それがいまはどうです。カメラだけでなく、猫も杓子も携帯で撮りまくっています。だから「よそ行きの顔」は消えました。「ふだんの顔」の自然な表情をいくらでも撮れるからです。すばらしいこと。
キリスト信仰も「よそ行きの顔」はいけません。わざとまじめな顔になるからです。もちろん日曜礼拝に出れば、おのずと「主のみ前」というおもいが募って、真顔になるのは当然のこと。しかし、日常生活で、自然と「ふだんの顔」になるのがいいですね。うれしいときは白い歯を出して大笑いしたらいい。悲しいときは、顔をくしゃくしゃに崩して泣けばいい。
聖書の中にも「よそ行きの顔」と「ふだんの顔」があります。
使徒パウロが、地中海岸のカイザリアにあるローマ総督官邸の獄舎に護送され、そこに設けられたパウロ尋問の謁見室に、アグリッパ二世と、その妹ベルニケが「盛装して入場した」ときです(使徒言行録25・23)。アグリッパ二世はユダヤ王国最後の王になるのですが、じつの妹のベルニケと不倫の関係をつづけていました。ベルニケは「小クレオパトラ」と称された美貌で、ローマの宮廷まで浮名を流しました。
このふたりが「よそ行きの顔」で謁見室に入ったのです。アグリッパ二世は「威張り顔」、ベルニケは人々のひんしゅくを感じて、つんとお高い「すまし顔」だったでしょう。
ところが使徒ペトロとヨハネは、エルサレムの議会演説で堂々とイエスの十字架と復活を証しました。その顔が「無学でふつう人」だったのに、ユダヤのリーダーは仰天します(使徒言行録4・13)。ふたりは、キリストのことをおもうと、うれしくてたまらなかったのです。だから「ふだん顔」で「喜びあふれる大胆(パレイシア)」不敵な顔になれたのです。
「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4・12)<写真はつくばいの水を飲む飼い犬・小鉄